足柄城址 | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

(随分間が開いてしまいましたがー
みっちゃん食堂で洒水(シャスイ)ラーメンを食べました」の続き、です。)

足柄峠へ上がりました。

まずは 足柄城址下の駐車場に車を停めます。

↓駐車場向かいにエリアのMAP。

↑「静岡県へようこそ」。(足柄峠は神奈川と静岡の県境になっています)

城址に向かって進むとー
↓左手に「新羅三郎義光吹笙之石」なるものがありました。

横に説明板。「足柄山 笛の調べ」

新羅三郎が 戦地へ赴く前 山中で笙の秘曲を ゆかりある若者に伝授した~ _という物語は子供の頃『古今著聞集』で読んでいたけど、そうか あの話の舞台は足柄峠だったのかー。 でした。 (しかしWikiによるとこれは 事実とは少し違うようで・・・)))

さて、正面の「足柄城址」へ上がってみましょう。

↑道の上に架かる橋は、「あづまはや橋」。(←日本武尊の伝説からの命名ですね?) 足柄城の「一の郭(クルワ)」から「山の神郭」へ渡るための物のよう。

説明板が立っています。

「足柄峠」

「足柄峠は、標高759mの箱根外輪山から派生する尾根上に位置し、静岡県小山町(オヤママチ)と 神奈川県南足柄市との境にあり、古くから官道として 防人(サキモリ)や旅人の往来も盛んであった。また軍事的にも重要な場所であったため、多くの史跡や遺跡、石仏、文学碑等が残され、その上旅情豊かな風景は、訪れた人達の心を離さない。

一、足柄の関
   昌泰(ショウタイ)二年(899) 盗賊(僦馬(シュウバ)の党という)を防ぐ目的で設置された関である。
一、足柄城址
   創築者・年代は不明であるが、平安末期ごろから戦略上の要地として、何度か軍事的な施設が設けられた形跡がある。
   城郭としては、小田原後北条氏の属城で、数ヶ所の曲輪(クルワ)と土塁、井戸跡、倉屋敷跡、数地点に砦(矢倉)等があり、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの後、廃城となった。
一、笛吹塚(フエフキヅカ)
   新羅三郎義光は、兄八幡太郎義家の苦戦している後三年の役(1083-1087)に参戦する途中、足柄峠において笙の笛の師 豊原時元の子 時秋に、笙の秘曲を伝授したといわれる。
一、聖天堂(ショウデンドウ)
   弘法大師の建立と云われ、本尊は等身大の石仏で秘仏として公開されない。福運厄除(フクウンヤクヨケ)、縁結びのご利益があるとして参拝者が絶えない。
   毎年、四月二十日に大祭が行われる。
一、万葉公園
   足柄峠は古来から官道であったため、多くの人々が通り、歌を詠んでいる。
   万葉集にも数首詩(ウタ)われているのが見られる。
   万葉の歴史を記す公園として、昭和五十七ねんどに南足柄市によって設置された。
一、万葉集から
   足柄の御坂(ミサカ)に立(タ)して袖振らば 家(イハ)なる妹(イモ)は清(サヤ)に見もかも
<+>
先ごろブロ友さんから教えて頂いた事ですが_
東国、を表す「坂東(バンドウ)」とは 足柄の坂の東~ に由来するそうですね? (そうだったのかー だったアタクシ)
一、その他の遺跡、句碑など
   あずまはや橋、六地蔵、芭蕉句碑、足柄明神、唯念(ユイネン)上人名号碑、生田蝶介歌碑、足柄古道など。
    小山町観光協会・小山町」

急な法面に付けられた階段を上るー。


上り切ったところが「一の郭」。

↓振り返って駐車場方向を見下ろしたところ_。(画面中央のMAPの後ろが「山の神郭」。 正面のやや細い道は金時山への登山道。)

↑パっと見ると「道路を通すために切通しが作られたのかな?」という感じですが、古地図を見ても 道はほぼ 今ある通りなんです。という訳で今立つのは多分 山城の元々の遺構の上。

改めて一の郭へ。

正面に立札が一杯。


↓右の立札には「一の郭」。
左の立札にはー

「相模之國 南足柄領」「毎年九月の第二日曜日に 神奈川県南足柄市と 静岡県小山町の共催で行われる「足柄峠笛まつり」において、相模の國(南足柄市)と 駿河の國(小山町)が 「領地争奪綱引き合戦」を行い 勝者は次回の笛まつり開催の日までこの足柄峠広場を領地とする。」_ と書かれていました。 

という事は~ / 今年は南足柄市が勝った模様^^)

↓「史跡と伝説」「玉手が池」

立札には「此の池は、底知らずの池 又は雨乞い池と云われ、底は小田原に通じているとも云われて居り、又干ばつ続きの折には、池の水をかきまわし雨乞いをすれば必ず雨が降り、それこそ 干天の慈雨 とされたと云われ 干日続きには遠近の村人達が雨乞いにきたものです。池の名称は足柄峠の守護神、足柄明神姫 玉手姫 から付けられたものですが、もともとこの池があったものか又足柄城の本丸井戸跡か、そのいずれかと思われますが井戸の大きさと池の大きさがやや一致するぐらいの面積であることは、史実と伝説の関連か非常に興味深く思えるではないでしょうか。」と書かれています。 (本丸井戸の大きさについて書かれた資料がある、のかな?「史実と伝説」について もう少し補足があるとありがたいですね?)
↓札の横の石は よく見ると蛙!!

↑石には「玉手ヶ池 干天に掻きまわすと 慈雨が降ると 里人は云う」と刻まれています。

立札の後ろに 木立に囲まれた小さな池。 これが「玉手ヶ池」ですね?


郭の東に 四阿。

西にはー・・・

石碑が立てられているようです。行ってみます。

(時に西に向かってのこの傾斜は ぬからないため 又 雨水を池に導くための工夫、かな? (箱根の山中城の説明板で、 山中城にはそういう工夫がなされていた と読んだので。ここも同じ北条方の城址ですしね。))

さて、郭の端にあった石にはー

生田蝶介という人の短歌「全貌を 裾野まで見せてあますなし 不二(=富士)は悠然と 天ささげ立つ」が刻まれていました。(あ、全く読めなかったので 短歌は小山町のHPに載っていたのを写させてもらいました^^;)

・・・きっとお天気がよければここから富士山が綺麗に見えるのでしょうねー・・・。

富士山は見えませんでしたがー、
この日 金時はすぐそこ、に眺められましたよ?


さて 歌碑の近くに もう一つ石碑があったのですが・・・

・・・読めませんでした。

「遊歩道入口」という立札があったので 奥へ進みます。

空堀を渡るとー

二の丸郭でした。

お弁当を食べていたご夫婦に「お邪魔しますー」と挨拶しながら郭の縁へ。



(かなり)かすんでますが 御殿場の街が見えます。



更にその先へー

郭と郭の間の小径に何、か・・・

「空堀跡」でした。

そして その先に~

↑「三の郭」。
ここで私達は引き返したのですがー

実は足柄城は 御殿場側に向かって更に二つ程郭を持っていたようですー。(三つ 四つと描かれた図も。/多分時代によって変わったのでしょうね?)

も一度サグになった空堀を通って二の郭に引き返しております。

二の郭 再びー。

(↑左のピークが金時)

続いては「あづまはや橋」を潜って、「聖天堂(ショウデンドウ)」の方へ行ってみます。

_つづく