箱根神社-曽我神社 | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

前日 鳥居を第一 第二 と二つ潜り 参道をここ(第三鳥居の手前)まで進みながらー

↑失礼にも引き返していた 箱根神社
(由緒書も前日撮っておりますー)




ここはかつて箱根権現と呼ばれる 神仏習合の信仰の霊地だった所。ですが 明治政府の神仏分離令で 別当寺「箱根山金剛王院東福寺」は廃寺となり、、、「箱根神社」となって今日を迎えています。
詳しくはWiki「箱根神社」で。

↓改めてお訪ねします。(芦之湯温泉に泊まった翌日、です。)

(↑今回は 第一駐車場からお参り、スタート。)
↓第四鳥居。

手水舎。

柄杓を使わないタイプになっておりました。

吐水口は龍。

第四鳥居を潜ります。

階段手前、

左手に 神輿庫。

中には立派な御神輿が。


↑沢山龍がからみついています~。正面の神紋は三つ巴。ですが、上の板瓔珞には 三つ巴の他 「三つ割り菊」も使われていました。

階段を 半分 上ります。

階段の途中 左手に現れる「曽我神社」へ寄りましょう。

(前回 伺い損ねていたお参りどころなのです_)
↓思いのほかに お参りされる方が多いー。

↓拝殿 前面。

↓両脇の狛犬達。


↓扁額の文字「曽我神社」。

↓鳥休み(ちょんまげみたいな部分)は猪の目。/ 紋は「庵木瓜(イオリニモッコウ)」。これは曽我兄弟の家紋でもありますが 皮肉にも仇として討った工藤もこの紋 なのだとか。(曽我兄弟も工藤一族、なんですねー)))

↓拝殿内に掛けられていた絵馬。どういう場面でしょう?(松明で見取り図か何か見てるのかな?)


拝殿脇に由来書と石碑。

↓「曽我神社の由来」

「一、御祭神 曽我十郎祐成(スケナリ)之命
       曽我五郎時到(トキムネ)之命
 一、礼祭日 五月二十八日
 一、由緒
曽我神社は元来 箱根権現の稚児であった曽我五郎(弟)の霊を慰めるため「勝名荒神(ショウミョウコウジン)」として祭祀されたが、その後 箱根権現に心願成就を祈念して見事仇討本懐を遂げた曽我兄弟の孝心を称えて、江戸初期の正保四年(1647)小田原城主稲葉美濃守正則が当地に石造の社殿を造営し、本社を建立した。爾来祥月命日の五月二十八日に故実による傘焼の儀などの神事が行われ、今日に至るまで心願成就の守護神として崇敬されている。
(続きは 曽我物語 の内容なので省かせて頂きます_)
 一、御祭神に関する宝物(箱根神社宝物殿陳列)
 (一)曽我兄弟像
 (二)赤木柄(アカギツカ)の短刀 重文 
 (三)微塵丸の大刀 重文
 (四)薄緑丸の大刀 重文
 (五)曽我兄弟縁起
 (六)曽我十番切
 (七)その他 絵額五(?)点
曽我兄弟の墓 箱根権現別当が建立したもので、国道一号線沿い精心(精進?)ヶ池のほとりにある。)
↑結構 「しらなかったー」な事が書かれていて「へ~」でした。

↓「曽我神社 造営之碑」

プレートには広重が描いた「曽我対面」が。(箱根権現の稚児となった箱王丸(筥王とも。弟・後の五郎)が参詣者として箱根権現に現れた仇 工藤と対面する場面。箱王丸は この時 工藤から「赤木柄の短刀」(←後に五郎はこれで工藤にとどめを刺す事に)を貰った と伝わっています。)

↑「曽我兄弟八百年祭の碑
 鎌倉時代 建久四年(1193)五月二十八日 曽我兄弟が 父親の仇討本懐を遂げ 殉難してから八百年 今茲(ココ)に兄弟の威徳を偲び 平成の大御代に甦りを念(オモ)って 式年大祭を奉仕し 御本殿造営等幾多の記念奉賛事業を奉修した
 また曽我物語を出版し 箱根 小田原とその周辺に記念行事を盛んに行い武道場に於いては 初の居合道全国選抜八段戦と弓道大会を催し 文武両道を興隆して 以って御神徳の宣揚につとめた
 この間 七九〇年祭を契機に奉賛会を組織して拝殿の建立と境内整備等の記念事業を奉修し かつまた武道場を建設して 青少年教化の道場とした 寄託された氏子崇敬者各位の御芳志に感謝しつつ弥栄(イヤサカ)を祈念する
 平成五癸酉(ミゾノトトリ)年 祥月命日
              宮司敬白」


では 階段を上がって 本殿の方へ。

つづく。