(_という訳で 実際はエスカーで昇ったり 参道を下ったり ~ しながらのお参りだったのですが 撮った順に写真を貼ると 何が何だか になるので_ 下から~ 綴って参りますね。)
「江島神社」。(←この社号に従い、神社名の表記は「江島」に統一いたします)
↑参道の奥、社号の刻まれた石柱の立つ場所 からお参りスタート。です。
↓「江島神社全景絵地図」/ 御祭神は、天照大神と須佐之男命が誓約(ウケイ)をなさったときに生まれた、 市寸島比売命 田寸津比賣命 多紀理毘売命 の三柱の女神様。(このうち市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)が本地垂迹説では弁財天と同一と考えられ 現在では「江ノ島といえば弁天さん」に。) 女神様はそれぞれが別のお社に祀られています。
「抄/ 欽明天皇13年(552年)に お告げによって 島の南の竜穴に宮を建て 以来一歳二度(年に二度・春と秋)の祭祀を行ってきた。」
お急ぎの向き 足に自信のない方 は ここで拝まれるもよう。
ちょっと階段「多め」ですからね。
時にこの門は「龍宮門」。本来はお寺の建築様式です。
明治に入るまでここが「金亀山与願寺 」というお寺であった事と関係が?(しかし 江戸時代に描かれた江ノ島の絵には このスタイルの門は登場しません・・・)))
↑扁額には「瑞心門」と記されています。
門からの眺め。
↓門を潜った先には 童子を従えた天女。
(522年に竜穴に宮を建てたのは 白龍と15童子を従えた天女だったという伝説があるんですねー)
↓その横に由緒書。
(↑左の石に彫られているのは弁天さんを表す梵字の種字「ソ」)
門の先の石段を上がるとー
石柱や石碑が集められたコーナーがありました。
もっとも目を引くのは「杉山和一(ワイチ) 総検校(ケンギョウ)」という方の像ですが、その脇の案内板にはー
「福石」について書かれた説明版が。
↑へー。盲目となり鍼医を目指した杉山さんが技術の上達を願って江ノ島に籠り 断食をして神仏に祈った満願日の帰りに この石に躓いて気を失う。が夢に弁天様が現れ 拝もうとした杉山さんは手にチクリとした感触を覚え~気が付くと松葉の入った竹の管を持っていた~。 ここから杉山さんは管鍼(クダバリ/カンシン)法を考案し 時の将軍の病を癒し ついには「関東総検校」の地位に~。/ 福石があったのを江ノ島だったとするのは 講談での話のようですが、 杉山さんは江ノ島の弁天様を信仰し 三重塔(←明治の廃仏毀釈で取り壊しになったそうです) や道標を寄進なさってます。又 お墓も江ノ島に。杉山さんが江ノ島に深い想いを抱いてらしたのは確か、ですね。
で福石は? 探すとコーナーの一番奥にありましたよー。
(↑手前にある「右面に 弁天様を表す種字「ソ」ゑ能し満道」と彫られた 道標も杉山さんが奉納した物とか)
↓これに 躓かれましたか?/ と、実は ここを歩いた時はそう思ったアタクシタチ・・・
↑が、帰って写真をよく見ると、横に「庚申供養塔」と刻まれていますし これは単に福石、を知らせるために後から彫られたもののよう。
ネットで調べたところ本当の福石は 灯籠脇の陰陽一対の石、だそう。
もしかしてー
↑この一番左の てっぺんに窪みのある石だった?(陰の方)/ 残念 撮れてませーん。
_ともかくこの石は今は 江ノ島参拝者が巡るべきスポット になっているようです。
さて、ここでちょっと寄り道。
福石の所から 少し下がった所に 赤い小さな太鼓橋があるのですー。
(因みにこの橋は「御幸橋」というそうな)
この橋は ↓赤い鳥居の所からもこんな風に見えており 気になっていたんです。
↓橋の上から見た 丹塗りの鳥居。その向こうにエスカー乗り場も見えています。
↑切通し(かな?)に架けられた橋を渡った先にはー↓
「江の島市民の家」という建屋がありました。
敷地入口の脇に 杉山検校の墓への降り口。
なるほどー、こういう位置関係でしたかー。
↑太鼓橋は 福石から 墓所へお参りするために架けられていたんですねー。
(振り出しに 戻っちゃった?)
さて、もう一度上に上がり、最初のお参り処 田寸津比賣命を祀る辺津宮(ヘツミヤ)に伺いましょう。/ つづく