大原へ-3実光院 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

三千院に続いては律川(リツセン)の向こうの寺院へ行ってみました。

(↑三千院の西の 元馬場 を北へ歩いております。左は お昼を頂いた「京美茶屋」。)

川の手前に~

「鉈捨薮跡(タナステヤブ ノ アト)」と書かれた札が立っていました。

「文治2年(1186年←平家滅亡の翌年) 大原寺(ダイゲンジ)勝林院での法然上人の大原問答の折、その弟子の熊谷直実は『師の法然上人が論議に敗れたなら法敵を討たん』との思いで袖に鉈を隠し持っておりました。しかし、上人に諭されてその鉈をこの薮に投げ捨てたと言われています。」ですって! (+熊谷さんは平敦盛(←「青葉の笛」の若武者)を討った源氏側の武士。ただし、元は平氏側。 合戦の後 法然さんのお弟子になり1193年に出家しています。)

律川に架かる末明橋から 川上を見たところ_。

(三千院は境内の南北を「呂川(リョセン)」と「律川」という二つの川が流れている、んですねー。時に「呂」と「律」は声明の二つの旋法(音階)だそうで「呂律(ロレツ)」の語源、ですって。/へ~)

川を渡ると_

↓右手に後鳥羽天皇と順徳天皇の陵(ミササギ)、

↓正面には 大原問答の舞台となった勝林院_

_ですが、まずは左手の実光院へ。

実光院は勝林院の子院で、元は向かい (今の天皇陵)にあったそうです。が、その境内に 梶井門跡(現・三千院の元の寺号) の門主であった尊快法親王が父帝・後鳥羽天皇とその第三皇子である兄・順徳天皇の遺骨を安置。 大正時代に宮内庁が天皇陵を整備したため お寺の方が移った~ ようです。(国家神道の時代、お寺が天皇陵を管理する事ができなくなったんですね・・・)


玄関まで来ましたー


↑「拝観の方は 銅鑼を叩いて しばらくお待ち下さい」ですって。
柱の釘に銅鑼を打つマレットもついている・・・。

恐る恐る そーっと 「こーん」と鳴らすと(亭主が)、すぐお庫裡様が出てきて下さいました。

(↑リーフレット)
↓お寺のHP
http://www.jikkoin.com/index.php?data=./data/l10/
(本尊である美しい地蔵菩薩様のお姿も見られます~)

まずは建屋の方から拝見します。

↓床の間に小さな鐘が沢山並んだ楽器がありました。

編鐘、という中国の楽器、との事。

(昭和58年に復元された物だそうです)

↓又、違い棚の下に 木琴 のような楽器が。

よく見ると細い石が低い順に並べられており、一つ一つに「音名」がついていました。/「調音器」という物ですって。

声明の「旋法」になっているそうです。(実際に叩かせてもらいましたが 不思議~ な音がしました)

↓欄間には中国の三十六詩仙の絵と詩。


縁からお庭を拝見しましょう。

案内のテープによると~
↓南の庭は_ 池をはさんで対岸が仏の世界。(塔が仏を表しているそうです)

そしてこちらが俗世。_との事でした。

↓西の縁からは 杉 の向こうに山が見え、ハレバレとした気持ちに。


続いては、お庭を歩かせて頂きます。

↓庭から見た 院。

時に、今 実光院が建つ場所には 元は普賢院と理覚院という二つの小院があったそうです。建屋南の池の庭は普賢院の物、 西側は理覚院境内になる、んですって。

という訳で 今歩いているのは理覚院があったあたり、かな?

(ほんのり色づいたサルトリイバラに 近づく秋 を感じました。)


池の向こうに 建屋が見えますね・・・、行ってみましょう。

お茶室だ。

「理覚庵」ですって。(かつてここにあったお寺の寺号からの命名ですね?)

中には風呂釜と 涼やかな色の水差しが置かれていました。


くるりと一回りして~
客殿まで帰って参りました。


ありがとうございました。

続いては勝林院を訪ねましょう。