大原へ-2三千院 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

♪京都~大原三千院

亭主と二人で来るのは34年ぶりです。(前来たのは結婚前 だったな~・・・)))


↑門に「梶井門跡(カジイモンゼキ)」とあります。 実は三千院が 「大原の三千院」になったのは明治以降で、それ以前は上京区梶井(御所のすぐ東)にあって「梶井門跡」と呼ばれていたのだそうです。梶井門跡は天台宗の三門跡の一つで、始りは比叡山東塔南谷の梨の木の傍らに結ばれた「梨本門跡」だと言います。梶井門跡の最後の門主・昌仁法親王(←伏見宮邦家親王の弟宮) が明治に入って還俗し 梨本宮(ナシモトノミヤ)を開かれたのは梶井~のルーツが梨本~であったから、だったのですね? (明治に入ると僧籍にあった親王様達はみんな還俗させられたようですね・・・。又宮家にあった仏教関連の物も外に出さねばならなかったそうで・・・ さぞやお大変だった事と思います。。。)

話がそれましたが_
元々この場所には梶井門跡の政所(マンドコロ 周辺の関連寺院の管理のための部署)があったそうで、そこに梶井門跡の仏像や仏具を移して「三千院」としたのですって。尚「三千院」という寺号は 梶井門跡の持仏堂の名称「一念三千院」からとられている、との事。

又、今は三千院境内にある_国宝の阿弥陀三尊がいらっしゃる極楽院は もともとは別の_個人所有の阿弥陀堂ですって。(藤原実衡(1100-1142年)の妻・真如房尼が 夫の菩提を弔うために建てさせた、という説が有力らしいですね)

時にこの 防御力高め な石垣に囲まれた門は「御殿門」。滋賀県坂本の穴太衆(アノウシュウ)が築いた門だそうです。

門を潜った先も まっすぐには進めず階段を上がらねばならない~ とか かなり「戦略」的に作られてるよう。

庫裏と見える建屋から 中へ入れて頂きます。

↑リーフレットとチケット。
三千院について_詳しくは お寺の公式HPをご覧下さい。



客殿の縁からお庭を拝見します。



(↑庭の向こうに見える二階建ての建屋はMAPによると円融房という御名前でした。(円融房も三千院のかつての寺号の一つ。))
(↓円融房の方から見た客殿。)


(日差しが強くて影が濃く、「元気な夏の庭」が撮れてしまいましたー)))

本尊薬師如来のいらっしゃる宸殿の縁から 庫裡の方を見たところ。(渡り廊下の付き方が面白いと思って)

↓宸殿から極楽院のある庭を眺めたところ。




庭から見た宸殿。


宸殿では毎年5月に「御懴法講(オセンボウコウ)」という法会が行われるのですが、これは元々は宮中で 梶井門跡の門主が主導して行われていた儀式だそう。 明治に入って御所内では仏教に関わる儀式は行えなくなり 一時は途絶えていたそうですが、明治31年よりここ大原で復活。 大正15年には御所の紫宸殿を模したこの建屋も建てられた~ との事。


↓神殿と極楽院の間にあるこの池は 弁天池 だそうです。

↑池の小島には 元は弁天様の祠があった、のかな?

続いては極楽院へ。

建屋は平安末期のものがベースになっているそうで 重文。中の阿弥陀三尊は国宝です。/脇侍の観音菩薩と勢至菩薩は倭坐(ヤマトズワリ=正座)をして中央の阿弥陀如来に身をこごめている_ のでしょうが、それが参拝する身には まるで仏様がこちらに身をかがめて下さっているように思われ 不思議な感動を覚えました。

極楽院の西_
苔の上に楓の陰が落ちて涼やかでしたー。

南へ回ると~

わらべ地蔵達が 苔の中でまどろんで(?)いました。




東の高台の方へ。この先は 最近になって開かれた場所のようですね?

↓階段の途中に弁天様。

「京の七福神」、の一柱、だそうです。

↓階段の上には_

金色不動堂。(平成元年に建てられたそうです)


更にその上には、

平成10年に建てられたという観音堂がありました。

(その他 御茶の頂ける無料休憩場などもー)

引き返して気づいたのですが_

極楽院の南に「朱雀門」という赤い門がありました。

これは 極楽院を本堂としていた時代の名残り だそうです。

(藤原期の様式だが 建てられたのは江戸時代と考えらる_ そうです)


知ってるつもりの三千院、 知らない事だらけでしたー。

この後は 又(お昼ごはんを食べた)京美茶屋前を通り、 その先の律川(リツセン)を越えて 実光院、勝林院、宝泉院を訪ねました。/ つづくー

(↑そうそう、この三千院の西を南北に走る道は「馬場」だったそうです。/ 色々「へ~」)