吉志部(キシベ)神社周辺の古い窯跡・工房跡 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

さてでは このエリアに残る遺構を見に行きましょう。

(↑吉志部神社の鳥居横にあった 紫金山公園のMAP)

まずは道を渡った先の~MAP上のナンバー「8」の・・・

あれ?
間違えたようです。

(・・・ よく間違えます)))

(↑乗り物でリスって ちょっと珍しいですよね?)
無駄に歩いてしまったけど 運動になった と思お っと。


あ、ここだ。「吉志部」の瓦造りの工房跡

ん?四角い囲みが重なっている・・・。違う年代の建屋跡かな?

あ、ここは瓦の成形をしていた場所ですね?(地面に回転跡
があるので丸瓦が作られていた~ とわかるそう。/ 尚、丸瓦は筒型に作ってから半分に切る、んですって。)

ここで焼いた瓦が 延暦(エンリャク)13年(794)に桓武(カンム)天皇が着手した平安京に使われたんですねー。

場所はここではないけれど(隣接する府営住宅敷地で)「土坑」という粘土の採掘跡も見つかっているそう。


瓦造りに必要な 粘土 水 登り窯に適した斜面 運搬するための川_ ここはいい条件が揃った場所だったんですね? (瓦を納める都(=京都)にもそこそこ近いし。)


さて、少し北東(パン屋のル・シュクレ・クールさんの南)に ここ吉志部より70年程古い、 聖武天皇の後期難波宮に使われた瓦を焼いた「七尾瓦窯跡(ナナオ ガヨウセキ)」 もあるというので 行ってみます。


住宅地の中の緑地的な感じの場所~ ですが ここが史跡、なんですね?

「2号瓦窯跡」と書かれたプレートが石垣の上に。/傾斜してるから登り窯かな?

階段脇に『史跡・七尾瓦窯跡』と書かれた石。


階段のの向こうに説明板があります。 その右に「3号瓦窯跡」のプレート。(あれ?では「1号~」はどこ?)

↓説明板「史跡 七尾瓦窯跡」。

「七尾瓦窯跡は 今の大阪市中央区にある難波宮の宮殿に使用する瓦を生産した、 奈良時代(8世紀前半)の窯跡。 難波宮の瓦生産地としては 最初にそうと明らかになった場所です。  現在7基の窯跡が見つかっており、北側の斜面には2基ずつ 6基の登窯が並んでいます。」ですって。

イラストの通りだとすると 今私がいるのは窯に入れる(或は出された)瓦や燃料のマキが置かれていた場所、みたいですね?

上がってみます。

又説明板があった。

(抄)「奈良時代の神亀3年(726)、聖武天皇によって難波宮の大規模な再建工事が着手されました。
 窯跡は高さ約2mの東西に細長く伸びる丘陵に 登窯6基(1~6号窯跡/ただし1号窯跡は未調査)と平窯1基(7号窯跡)の計7基見つかっています。 
 登窯と平窯 異なる窯がある事、 更に同じ登窯でも 窯の作り方や形に違いがある事から、 難波宮の造営に際して 急いで多量の瓦を作る必要があり 複数の瓦作りの工人集団が集められたと考えられます。」

又 二基ずつ「同じタイプ」の窯が並んでいる事から 「瓦窯は二基一組で創業していたと考えられる」そうです。

なるほどー。↑しかし7号瓦窯跡って たったこれっぽっちの範囲しか保存できてないの?(埋め戻しをした、って事でしょうかね?)

↓2号瓦窯跡を上から見てみましょう。


↓「2号瓦窯跡」の説明板。

「床の階段の角度は約40°」「壁に一部に塼(セン=煉瓦)を使う」「焚口の上に覆い屋があったと考えられる」 などがわかっているそう。

↓これは「3号瓦窯跡」の説明板。

夏草で読みにくいなあー。(草どければよかったわー)/ がともかく「床の階段の角度は17°」「壁には大型の塼(セン)を積む」 など2号瓦窯とは造りが違う、事。 「窯の中には全く焼かれていない軒瓦と平瓦が交互に立て掛けて並べられた状況で発見されました。窯の中に並べる途中で中止したものと考えられますが、瓦を焼く時の様子がよく解りました。」、だそう。 (え?私的には よく解らないんですが^^; これは焼こうと思ったら「もういいってよ」と言われたのか 焼こうにも「マキがないわー」だったのかー・・・。がどっちにしても工人としては「はぁー?何だよー」だった事でしょうね)

でえーと 博物館の第二展示室にあったのは もしかしてこの3号瓦窯を復元したもの~ だったのかしら?


↓史跡の説明板の右下のMAP。

(七尾エリアまで入ったMAP。これを公園にも置いてもらいたいなー)

紫金山公園に引き返して、神社の東の遺構を見ます。

吹田34号須恵器窯跡。

え?これは「移築されたもの」でしたかー。(五月丘西、で発見された7世紀初めの遺構。区画整理事業に伴って発掘調査が行われ、1981年にこの地に移された、そうです。)

「この窯跡は 上部が失われていますが、残存長10.85m、最大幅1.84m、床は平均21°の角度で傾斜。」
「市内にはかつて60基ほどの窯があったと考えられ、この窯跡はその最終段階の窯のひとつです。」
「吹田市の北半部を占める千里丘陵では丘陵に堆積している粘土を利用して、古墳時代の6世紀前半から7世紀前半にかけて須恵器の生産がたいへん盛んに行われており、大規模な窯業地帯でした。」
(+それに加えて 8世紀には瓦生産が行われた、んですねえー)



吹田の古代史に「1」詳しくなっちゃった?

さて、戻って参りましょう。


博物館までもどってみると_
建屋前で何やら始まりそうでしたー。(椅子が並んでおり 中学生が楽器を運んでいました)

が、まだまだ時間がかかりそうだったので 気になりながらも駐車場へー・・・。

何があったのかなあー? (誰かブログとかにUPしていないか ググってみようと思います。)/ おしまい。