吉志部(キシベ)神社 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

吹田市立博物館に続いては 吉志部神社へ行ってみました。

↓博物館の三階から~

神社の建つ紫金山公園へ出るルート。

正面のフェンスの向こうは

吹田市立岸部第二小学校。(学校名・地名は岸部、駅名は岸辺、神社は吉志部。ややこしいー)


公園内の遊歩道をゆるゆる下りていきます。



建屋が見えてきた。

(↑多分この竹垣の向こうが神社の敷地なのでしょうね?)

境内に入ると左手に社殿がありました。

まず手を清めましょう。

手水舎の隣に由緒書がありました。

↓神社の公式HP
https://www.kishibejinja.jp/

創建は不明ですが 社伝によれば「第十代・崇神天皇の御代(3世紀後半?)に大和の瑞籬(ミズガキ)より神を奉遷してこの地に祀ったのが創祀」とか。
御祭神は_
中央座に 天照皇太神 豊受大神、
左座に  八幡菩薩 祇園牛頭天王 稲荷大明神、
右座に  春日大明神 住吉大明神 恵比須三郎
が鎮座。
明治3年に社号を現在の「吉志部神社」に改めていますが、元は「太神宮(板には「太」、HPでは「大」)」と称し 八柱の祭神の内の豊受大神を除く七柱、をお祀りしていたそう。それで「七社明神」とも呼ばれていましたが、1713年に豊受大神をお迎えし それよりは「八社明神」となった_ という事です。

(神社が建つ場所は、 古墳時代に須恵器を焼いた窯や 8世紀に後期難波宮や平城京へ納める瓦を焼いた窯が点在する山。社殿が本当なら 窯 が稼働していた時代すでに神社はあったはず。/ 八柱の御祭神の内 大昔ここで須恵器や瓦を焼いてきた人達が信仰していた~というと 外からの入植者がよく祀っている祇園牛頭天王(≒スサノオ)あたりかしら? そこに平安時代以降 荘園の領主達の氏神様達が加わっていったー? / 私的には 御祭神の中に、 どんじ祭の伝承に登場する「 蛇を切って 少女達を釈迦ヶ池の大蛇に人身御供に差し出す風習をなくした 吉師(キシ)俊守」 がいる~ とかだとよかったなー。 って 私の希望なんか関係ありませんね^^;)

社殿。

今は新しい社殿が建っていますが、これは2008年の不審火で元の建屋を失った結果で、 それ以前の物は1610年に建てられた桃山様式の華やかな_ 吹田市では最古の木造建築物で 国の重文だったそうです。 この元建屋は 難波吉志(ナニワノキシ)一族の流れをくむ 吉志部家次とその弟一和の兄弟 (姓を吉志とする本も)が寄進したものだそうですが、 2011年の再建の施工業者は金剛組だそうです。/ 神社HPによると、岸辺の吉志氏は渡来系で 阿倍野の四天王寺と繋がりが深い、そうですから  その四天王寺を建てた渡来人金剛氏の流れを汲む金剛組による施工~ って「縁浅からぬ」感じですね。 (って吉志氏は新羅系、金剛氏は百済系 のようですけど)

社殿の横の末社_


鳥居の扁額には_

「(右から)愛宕之宮、大国主之神 金比羅神 天水分神(アメノミクマリノカミ)」と記されていました。

うーん・・・
あれれー?
さっき吹田市立博物館で見た この神社の「ドンジ祭」については どこにも 何にも記されていませんねー・・・。 吹田市無形民俗文化財にも指定されているお祭なのに。。。


とりあえず 下まで降りてみましょう。

割り拝殿の先の石段。


おや、あっち(車道)の道脇に何かある。

_と思ったのですが 個人(ご夫妻)が奉納した「盡忠之碑」でした。


石段の下にあった手水舎。水口は_

ライオンでした!


下の車道に出ました。

振り返って見た 神社の鳥居。

近くにあったMAP。

MAPにもお祭に関わる記載はありませんでした。

(博物館で知った「どんじ祭」の印象が強烈だったので、 何か 証拠 がほしかったのですが・・・))) 



えー続いては昔の窯跡を見に行ってみたいと思いますー。


<おまけ>
吉志部神社参道は ここからずっと南へ伸びていました。
怠けて歩いてはいないのですが グーグルMAPで撮った「一の鳥居」の絵を貼ります。

(↑奥の森が神社のある「紫金山公園」)

さて、ここまで近寄って気づいたのですがー

脇に説明板が立ってるんですよ。

この大鳥居は府営住宅の建て替え時に 大型車輌通行の便宜の為に (トラックが下を通れるサイズの物を、と) 建立された物だったんですね。で、旧一の鳥居は 二の鳥居として参道上に移築~。 つまり、私が撮った鳥居が 旧一の鳥居だった、という事ね?

む~ん、 吉志部神社の鳥居に 「1」詳しくなっちゃった^^;)?


<とりびあ~♪>
吉志部神社のWikiに「釈迦ヶ池遊猟事件」という 怖ろし気な段があったのですが 読んでみたら そんなに怖い話ではありませんでした。(明治時代に神社の裏の池で プロイセンの皇太子が禁じられている鴨猟をし 住民から殴られ -中略- 謝罪を受けた~ という・・・。 もっとも当時の日本にとっては大問題だったようですがー)