山辺の道-1纒向日代宮跡~玄賓庵 | (又)おだわらぐらし はじめました

(又)おだわらぐらし はじめました

 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

相撲神社を後にした私達は
山辺の道(ヤマノベノミチ ←奈良盆地の東の端を南北に走る山裾の古道)を大神神社(オオミワジンジャ)まで歩く事にしました。


古代人と同じ道を歩き 同じ景色を見てみましょう。

神社から少し坂を下ったところに、

「纒向(マキムク) 日代宮(ヒシロノミヤ) 伝承地」、がありました。

「纒向日代宮」は第12代・景行天皇の宮。

景行天皇は、ここ穴師で 野見宿祢と當麻蹴速の試合をご覧になった垂仁天皇の息子で、 ヤマトタケルの父。
もしかすると ヤマトタケルが亡くなる直前に詠んだ「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 大和し美し(ウルハシ)」という歌は  自分が育ったこのあたりの景色を思い浮べながら詠んだものかもしれませんね~ ↑ というプレート。(多分)/ ついでのオマケですが、絵はここから 畝傍山(左) 耳成山(右)を眺めたところです。

纒向遺跡のイラストもありました。

↑右下の「弧文円板」は吉備系の祭祀遺物だそうですよ? (又出た「吉備~」。大和と吉備って (私が)思ってた以上に関わり深そうですね)

ついでですが、景行天皇の陵も この近くです。(600m程北西)

(宮と陵って 離れている事が多いけれど たまに近い方もありますね?)

しかしー「ほー」と納得してもう少し坂を下った所に_(80m程)

又「纒向・日代宮跡」と彫られた石柱と 案内板。
んー? / 誤差の範囲内、のようにも思えますが 一応こちらが「宮跡」、で先程のポイントは「伝承地」って事らしいですー。

坂を下りきった所の辻を_

左(南)へ。


県道50号線に出ました。

しばらく車道を山側へ歩きます。


道脇を流れているのは 大和川の支流、纒向川。

近くにあった歌碑。

人麻呂の雲の歌 でした。

「痛足河(アナシガハ=纒向川)河波立ちぬ
巻目(マキモク=纒向)の 由槻(ユツキ)が嶽(タケ)に
雲居(クモイ)立てるらし」
なんだか 歌の通りー。


森の裾に到達。

ここからは道を右に。

道なりに進めば 桧原(ヒバラ)神社~狭井神社~大神神社~ とお参りできるコースです。





山辺の道は 山裾の_ 平地より少し高い所を走っています。


これは 昔の奈良盆地は沼沢地が多かったから~ ですって。

おや、案内板がある。

「大和の青垣」ですって。

(え、 ここ 国定公園 だったんですかー すみません、知りませんでした^^;)


「三気大神神社」ってところがありました。

でも扉が閉まっています。(すでに拝観終了 だったんでしょうか?)

その先に_
桧原神社

入ってすぐの場所(ってこちらは正面ではなく脇ですが)にあるのは、「祓戸(ハラエド)」。神職さんが身を清める場所だそうです。我々は立ち入らないようにいたしましょう。

正面入り口に向かいます。

改めて_ 桧原神社です。元伊勢の第一号の神社。第10代・崇神天皇(三世紀後半に実在したとされる天皇)が 娘の豊鍬入姫命に命じ、天照大神を自身の宮である磯城瑞籬宮(シキミズガキノミヤ / 大神神社の南)から出して 祀らせたんですね。姫はその後長い年月 天皇家の祖神である天照大神がお鎮まりになる場所を捜し歩く事になる訳ですがー、、、 ここが 最初に奉斎した場所。(そして約90年後に 次の代の斎宮・倭姫によってやっと伊勢にお鎮まりになった、というー・・・)

手を清めましょう。

拝殿も神殿もない 三つ鳥居が並ぶ聖域。参拝者は鳥居の向こうの山を拝みます。 古い古い神社の形、ですね。 御祭神は天照大神。(一度天照大神をお祀りした神社は ご神体を移してもずっと「天照大神をお祀りする神社」になるのです) / 左手の小さな祠は昭和61年(1986)に建てられた 初代斎宮・豊鍬入姫命を祀るもの。

御由緒書。


境内の隅にベンチが置かれていました。

その横に「二上山(ニジョウザン/フタカミヤマ)」と書かれた看板が。

へーっ二上山って火山だったのー?(すみません知りませんでした)/ とそれはおいておいて_

二上山の雄岳(517m)に 謀反の建議をかけられ処刑された大津皇子の墓があります。姉の大伯皇女(=大来皇女)が悲しんで詠んだ歌が万葉集に載っていますが、ボードにはそのうちの一首 「うつそみの人なる吾や 明日よりは二上山を 弟背(イロセ)と吾が見む」が書かれていました。

又私達的には、「 午前中に行った當麻寺はあの山の下だなあ。當麻蹴速の足跡をたどって相撲神社まで行ってみたけれど 當麻蹴速の実像は かえって霧の向こうに・・・。 でも、野見宿祢が山陰ではなく三輪山の南の出雲出身と(ここ桜井市ではそうなっている)いう事なら 全然違うストーリーが浮かび上がってくるなあー (奈良盆地を挟む東西勢力のぶつかり合い、とかさー)」 でした。。。


山辺の道に戻ります。


石垣が見えてきた。

古い供養塔の傍を通って_

石畳の道を道なりに進むと、


玄賓庵(ゲンピアン / ゲンピンアンとも)の門の前に出ます。

玄賓僧都が結ばれた庵で お能「三輪」(世阿弥作)に登場する~ そうです。

聯には「三輪山奥の院 玄賓庵密寺」の文字。

開山者・玄賓(ゲンピン)は法相宗のお坊様ですが 現在は真言宗醍醐派のお寺。

そうそう、お堂には かつて大神神社の元神宮寺だった大御輪寺(現・若宮社・大直禰子神社)が所蔵していた木造不動明王坐像(重要文化財)がある、そうなー。


この後は再び山辺の道に戻り_

狭井神社を目指しましたー。/つづく



<おまけ>
大神神社の神宮寺・大御輪寺(←現在 玄賓庵にある不動尊像の元の安置場所)は 神仏分離令で廃寺となり、お祀りしていた仏像は近隣のお寺に引き取られたといいます。 現在 跡地は神社の若宮社となり、三輪の神の子孫・大直禰子(オオ・タタ・ネ・コ)命が祀られています。/ 因みに建屋はお寺時代のものがそのまま使われている、そう。

(2017.9.8 の画像)