尾道_寺社巡り-1(浄土寺) | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

坂と寺の町 尾道_。
我々も 山の斜面地に点在するお寺を訪ねていきましょう。

まずは浄土寺さんから~。

道に面して建つ案内板に「国宝の寺」の文字。_高まる期待。

でもまずは線路を潜る。

潜った先の階段の その先に朱塗りの山門(重文)が見えてきました。

門には「十一面観世音菩薩」と書かれた提灯が。


階段を上りきって初めて分かった事ですが 階段と門の間は石畳の道になっておりー・・・ なんと自動車が通ります!(写せなかったけど さっき 通った)

へー こんな所が「車道」だなんて。/ と思ったのですが、 この後お寺で地元の方から 「いや 元々は無かったんですよ。あの道は後付。そのためお寺の塀をちょっと下げたりしたんです。」と教わり 又 「へ~」。

しかし そうか 元々は線路だって無かったのだ。このお寺は海辺の大通りからまっすぐ上がる超立派な参道を持つお寺だったんですね?


山門を潜り境内へ。

門の脇の絵馬は鳩の形でした。(肩からバッグを下げた「伝書鳩」/ 浄土寺は江戸時代「御法度」だった伝書鳩を飼ってた (商人達、が) お寺~ なんですってね?)


正面の本堂、国宝です。(1327年、建立)

右手の多宝塔も国宝。(1328年、建立) そして この境内地そのものも国宝、だそう。

まずは手を清めましょう。

手水舎にいたのは_

↑「オッス おら神龍!」↓

気押させる程の迫力ある龍でした・・・。

(↑余談ながら龍の後ろにチラと見える鐘と燈籠は『東京物語』のラストシーンに登場する物。ただし位置は変わっているそうです。(車道を造るために壁を手前に移動させため・・・))

改めて本堂へ。/ 推古天皇の時代に聖徳太子によって開かれたと言われる古寺ですが 鎌倉時代には寂れていたようです。  鎌倉後期に真言律宗のお寺として再興されると 浄土寺は「大田荘の年貢米の請書」となります。そして南北朝時代には各派がこの寺を戦略的拠点とみなし 地頭職を寄進しあうように。(へー)

(という訳で 寺は後醍醐天皇側からも因島の地頭職をもらっていたようですが・・・)
浄土寺は尊氏が九州へ下る時、又都へ上る時に戦勝祈願の参篭を許し(というか拒めない?) 尊氏は三十三首の歌(!)を奉納しています。
後に足利氏は複数の地頭職を寄進。更に寺境内(今おのみち生涯学習センターがある辺り)に「備後国の利生塔(リショウトウ*)を立てたといいます。(現在は失われていますが) / 寺が足利家の家紋「二つ引両」を寺紋としているのは 足利家が最大の庇護者であったためのようですね。

扁額 真ん中の文字 読めません^^;)

堂内の厨子には本尊・木造十一面観音菩薩立像 がある_そうですが秘仏で直接は拝む事ができませんでした。御開帳は33年に一度。前回が2001年でしたから次は2034年? ですが_新天皇即位の年には特別に公開される事になっているそうで、5/2~5/6に開帳予定、と聞きました。

観音堂の西には庫裏_

裏手には庭園もあると聞きますがー(有料だそうで)))

東の阿弥陀堂 多宝塔を拝見する事に。


阿弥陀堂。(1345年に建てられた重文)

多宝塔。(上で打ってますけど国宝)

蟇股(カエルマタ)の装飾が繊細で美しい。(って写ってないじゃーん)


塔の後ろの一段高まった場所には開山堂。


開山堂へ上がる石段の東には 地蔵堂、護摩堂。そして天照大神を祀る小さな祠、、、

更にその東側に_
丹生(ニウ)明神へ上がる石段、文殊堂がありました。


振り向くと_ 海側の塀近くに子安堂。その手前に包丁塚。


ん~ 見所多く 歴史的にも大変面白いお寺でした。

続いては道を挟んで東隣にある海龍寺へ~

・・・と思ったのですが 石段前に黄色いテープが貼られています。。。 / 何があったのー?

つづく



*利生塔*
利生塔って知らなかったのですが_  夢窓疎石のすすめで足利家が国ごとに立てた 南北朝の争による戦死者の石の供養塔、だそうです。/ 備後国の利生塔 をもらった浄土寺は_備後代表といってよい権威ある寺院になったって事でしょうか?
又 普通 利生塔は「安国寺」とセットになっていたようですが 備後の安国寺は鞆の浦に建てられています。(夢窓疎石が関係しているなら臨済宗のお寺のはずだから・・・ 真言宗の浄土寺を安国寺にはできなかった~ のでしょうか?)
安国寺と分けてでも 利生塔は恩ある浄土寺に上げたかった、のかなー? (色々本を読まなくてはならなそうです^^;)