依水園(イスイエン) | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

吉城園に続いては すぐその隣の「依水園」へ行ってみました。


依水園は国から「名勝」指定(昭和50年より)を受けている庭園で 面積は3400坪。
敷地内に 食事処「三秀」(建屋は旧・清須美家別邸)

寧楽美術館」があります。

↑むくり屋根が印象的な建屋。(昭和44年(1979年)に東畑謙三によって建てられています。常設展示開始は昭和45年(1980年)から、とか。)

門を入って道なりに行くと受付がありました。

入園券を求めると 依水園・美術館 の共通券になっており 大人一人900円、でした。


ではまず 依水園の方から~。

依水園は作庭時代も所有者も違う 前園 後園の 大きく二つに分けられます。

前園は 延宝年間(江戸前期)に建てられた茅葺屋根の別邸と庭、がベースになっています。 所有者は奈良晒(ナラザラシ)「秋田屋」の主:清須美道清(キヨスミ・ドウセイ)、といいます。
その 茅葺屋根の別邸~というのが

さっき前を通り過ぎてきた食事処「三秀」の入る「三秀亭」だったんですねー。

(お庭側からもお店が利用できるみたいですねー)


縁の前から若草山方向の写真も撮ったのだけど ぼけぼけで付けられませーん・・・


しかしなんとか 水と緑に囲まれた静かで趣のある豊な庭である事はお伝えできるかなー?

道なりに行くと「挺秀軒 (テイシュウケン)」という茶室がありました。



別邸と同時期に建てられたといいますから ここまでが「前園」、でしょうか。


道なりに進むと明治時代の実業家:関藤次郎(セキ・トウジロウ)が建てさせた「氷心亭」という建屋が現れました。


関藤次郎は 清須家が所有していた建屋と庭:「前園」、 更にそこに隣接する土地の所有者となり 茶の湯と詩歌を愉しむ為の庭:「後園」を造ります。そしてこの二つを合わせて「依水園」と名付けたそうです。
(彼は門翁とも名乗っていたようです_ここが「奈良市門町」だからかな?)

という訳で この氷心亭から東に見えるのが「後園」になるのですがー
まぁその景色の美しかった事。


池の向こうの築山の上に東大寺の南大門の屋根が。その奥には若草山。(あーもっと早い時間に来ていればなー)

道なりに進みます。

↑左手前は「寄付(ヨリツキ)」。茶会用の施設としては茶室から離れすぎているので四阿として使われていたものかなー? と思いましたが
↓近くに「臨渓庵」という茶室の跡がありました・・・


もしかしたら 先程の寄付は この茶室に付随していたものかもしれませんね?

小さなせせらぎを渡り

築山に上ると

「依水園」と刻まれた碑がありました。

その先の斜面地には 小さな水車小屋が。

壁に茅が使われてる。雪国見たいですね?

ありゃ 水車の側は板壁だ。(どう使い分けてるんでしょう?)

水車小屋の先は 池。


飛び石から振り返って見た水車小屋。



池の向こうにさっき見た氷心亭(左側)がー。(因みにその右に見えている建屋は「柳生堂」。後で行ってみます)



対岸には 灯篭の基礎っぽい石が 飛び石に置かれていました。

斜面を上がると目の前に 柳生堂が・・・

・・・写ってませんでした><)
(↓写ってませんが 柳生堂というのは柳生村の柳生家の菩提寺 芳徳寺から移築されたお堂。この時は閉まっていましたが紅葉シーズンには蔀戸(シトミド)が上げられ 詫びた風情をかもす~ らしいです。

↓柳生堂前から後園を振り返ったところー。


この後は氷心亭横を通りー

潜り戸越しにー

挺秀軒を眺めー

池越しに 三秀亭を眺めー して

退出しました。

その後は寧楽美術館で高麗と朝鮮王朝の焼き物を鑑賞しました。

時に_ この美術館は、関家から依水園を買い受けた神戸の実業家中村氏が 三代に渡って蒐集した美術品を展示するために昭和15年(1940年)に財団法人として設立したもの と言います。が 戦争の勃発で 実質的な公開はされなかったようですね。更になんと・・・ 多くの収集品は戦争で失われたそうですが、それでも尚 二千点を超える 古代中国の青銅器 朝鮮半島の陶磁器 日本の茶道具が残り 現在も所蔵しているといいます。
戦後 依水園は米軍に接収されますが 昭和28年(1953年)に返還されました。 中村家はそれから園の修復にとりかかり~ 昭和33年(1958年)には庭園の、昭和45年(1970年)には美術館を公開しています。



軽い気持ちで訪ねた依水園でしたが、
この庭園が、江戸時代の清須美家 明治時代の関家 昭和の中村家 _ 三つの時代の分限者によって作られ 発展的に守られてきた事を知って 「じん」 としましたー。/おしまい。