平野郷散策・・・(迷いながら) | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
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平野は古い環濠(カンゴウ)集落。もちろん今は 濠(ホリ)は残っていませんが、門(十三の木戸口)を守ったお地蔵様の祠が残っているため かつての町の規模や造りを知る事ができる、といいます。

今回私は資料を持たず ぶらぶら歩いたのですが それでも 幾つか祠を見る事ができましたよ?

まずのっけに、大念仏寺の門の手前に~
「馬場口地蔵」。 

その横に説明板がありました。

_ここは奈良街道に面してある 主要な門の一つだったんですね?

馬場口、大念仏寺、と見た後は 平安初期のこの地の領主だった、坂上田村麻呂の息子:広野麻呂(この広野、が 現在の地名「平野」の元になったと言われています)の屋敷跡を訪ねましょう。
道なりに進んで 永福寺前を通りー


・・・って これは何でしょう?

↑「は」って・・・組名ですかねー? (後で調べたら「馬場口の ば」でしたー)))

おっと、探しているのは広野麻呂の屋敷跡ー。 / 栗原医院の角を東へ曲がるとー・・・
ありました。↓

現在は遺構的な物は特に残っていないようですがー
ここが 平野の始まりのポイントであり、大念仏寺の前身、修楽寺別院 があった場所 なんですねー?

屋敷跡の向かいには「平野連合會館」という施設がありました。

塀には平野の歴史を記したパネルが。


へー昭和50年代にはまだ屋敷跡を示す土壁が残っていたんですねー。

↓これが現在の地図にかつての環濠を重ねた図。

↓江戸時代の地図。


道なりに歩きます。


 - - - シーン抜け - - -
(というか 適当に歩いてたら迷った^^; 携帯の地図アプリのポイントが針飛びしちゃって・・・)

銭湯がありました。

戎湯さん、ですって。

次に目指してたの平野公園だったのに 全然違う方向へ来てましたーーー。(でもとりあえず現在地がわかりましたよ)

で、(これ以上迷わないよう)南港通りを東へ歩く事にしたのですが、住宅街にちら とお地蔵さんの祠が見えたので行ってみるとー

「流口(ナガレグチ)地蔵」でした。


再び南港通に戻りー
平野消防署前から 

北へ上がりました。

↑正面に見える緑は 平野公園のものです。

いやいや えらく大回りをしてしまいましたがー

御蔭で見られた物もあり、よし としましょう^^)

この公園を目指していたのは ここに 平野の昔話(全興寺の「首の地蔵尊」)に出て来る「樋之尻口地蔵」の祠 そして『古事記』に出て来る赤留比売命を祀る神社 があるから、です。


(↑石橋の跡? かつてここに濠があった事を示しているのかなー?)

探していたお地蔵さんの祠は 交番の隣にありました。

大きいから 祠 というより「お堂」と呼ぶべきかな?(全興寺に伝わる「首の地蔵尊」の話でも地蔵堂 と出てきますしね)

説明板。

格子越しに石のお地蔵様に挨拶。

おや、格子にリーフレット(?)が。一部頂きましょう。


で、 「家に帰ってから見よう」とバッグへー・・・。
残念_
実はこのリーフレットには
↓資料と一緒に 他の地蔵堂(つまりそれは江戸時代の木戸口の位置を示すものでもある)の場所を記したMAPが入っていたのですー。

これをたよりに散策すればよかったー。。。

樋之尻口の地蔵堂を訪ねた後は すぐ近くにある赤留比売命神社(アカルヒメノミコトジンジャ)へ行ってみたのですが その話は項を変えまして_。




*オマケ*
地蔵堂の向かいに 墓所がありました。

え、なになに
安藤次右衛門尉正次 と 大峰山役行者 の墓地、ですか?

修験宗の教祖:役行者は昭和初期に祀られたそうですが、安藤正次(夏の陣で秀次の家臣として働いています)の墓は 江戸時代の古地図(←拡大できますヨ)にも この位置に「安藤氏墓」と載っていますねー。
因みに安藤正次さんは伝令として働いている最中 豊臣方に遭遇し深手を負い 平野公園の西の願正寺で治療を受けるも自害なさったといいます。
が、あら墓石には「討死」の文字が刻まれていますね・・・

↑子猫だー
↓こっちはママかな?

__ともあれ、
奈良街道に面した平野、戦の折には両陣営にとって大切なポイントだったに違いありません。/幸村が家康を狙って爆薬をしかけた~ という「首地蔵」の話のバックには 実際に起こった激しい戦闘や戦略としての焼き払いがあったかも。

*もひとつオマケ*
杭全神社の方へ行こうとして出会った「河骨池口(コウノイケグチ)」のお地蔵様。

古い祠を こうして今も大切に守っている平野、立派だなー。