2月の中之島(の川上側) | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

中之島の図書館のカフェ「スモーブロー キッチン ナカノシマ」でお昼を食べたあと 1時20分からの相愛大学の学生さん達による無料コンサートまで少し時間があったので 中之島の川上側を ぶらり してきました。

(↑図書館の南側)
図書館の掲示板がありました。

↓あ、くずし字入門講座 ですって。いきたかったなー。(くずし字や異体字を勉強したいと思ってるんですよ)

↓これも楽しそう。

んー こういう情報って自分でアンテナ張ってないとキャッチできないのよねー。

図書館の東隣は中央公会堂。

紅白の縞々が華やかでお洒落。

東のファサードの美々しさったらありません。

「どうだい」な顔、ですよね。

大正7年に完成したこの建物は(東大の建築学科卒業6年目だった)岡田 信一郎がコンペで勝って建てたもの。 岡田さんはこの後「明治生命館」などを手がける事になる 戦前の偉大な建築家の一人ですが、この公会堂のデザインに限っていうと 明治45年に辰野片岡事務所(←辰野金吾と片岡安がタッグを組んだソレハモウな設計事務所)が建設した「堺市公会堂」(現存せず)に 「似ている~」とか 色々あれこれ面白い らしいです。

ソース→http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou22/kiyou22_15.pdf

公会堂を過ぎると大阪市立東洋陶磁美術館が見えてきます。

今かかっているのは「唐代胡人俑―シルクロードを駆けた夢」という特別展。(↓「ちょっとフレディー・マーキュリー入ってます」なポーズがイケてます?)

舟越桂も見られるみたいですね。(余談ですが 昔舟越桂展を観に行って息子に自慢したら「舟越かつら店?お母さんカツラ買ったの?」と言われくじけました。。。)

美術館の向こうには木村長門守重成表忠碑

(邨は村の異体字なんですねー。/ しかし木村重成の表忠碑がなぜ中之島に? 調べてみると・・・ 長くなるのでこの話は下で改めて_)

あら、ガーブ ウィークス、工事中?(春に向けてテラスをリニューアルしてるよう。 店舗は営業中でした。)

土佐堀川の向こうに立ち並ぶビル。(アーチを持つ茶色のビルは光世証券。こちらも南側からみると「なかなか」な建物)

一階に飲食店が入ってるビルが多いんですよね。(テラス席が並んでいます)

難波橋。


橋の下を潜って向こう側へ行くと
そこは「春を待つバラ園」ー。

2月のバラ園は人もまばらで静かー でした。

↑高いビルの間の小さな建物、カワイイですよね。/茶色のビルの左の緑の屋根は「北浜レトロ」。一軒おいてその左の和風の建屋は先ごろオープンしたOXYMORON。
↓ビルにばばんと店名「LE PONT DE CIEL」が記されているルポンドシエルビルもかっこいいなー。


天神橋を潜ると 橋と島を結ぶ螺旋のスロープが。(有元利夫の「花降る日」とか思い出しちゃうー)


その先が中之島の剣先。(屋外でヨガを楽しむ皆さん~)


引き返しましょう。

環状一号線(上)と土佐堀通(下)がクロスするその奥には「今橋」が架かっています。(昔は両替商が軒を並べる金融街だったそうですね?) その下を流れるのは東横堀川。

川に黄色い鳥が浮かんでいるように見えますがー

もちろん(?)ブイです^^)

あ、そろそろコンサートが始まる時間。

で、この後 図書館に引き返してお嬢さん達が奏でるカルテットを聴いた、のでございます。


♪とりびあー♪
<木村重成の表忠碑が中之島にあるわけー>
木村重成は大坂夏の陣の「若江」の戦いで討ち死に(享年22とか)しており、東大阪市の若江に彼の墓があります。(その対岸 (第二寝屋川の)には 木村重成に討ち取られた山口重信(井伊方の武将)の墓もー・・・)
明治に入って価値観が大きく変わり「反徳川」だった人々の名誉回復が行われました。(又南朝が正統とされ楠木正成らもヒーローに) 大坂方として戦い若くして亡くなった木村重成も 芝居や絵本で主人公として描かれるなどし人気が出ます。(そういえば実家にも復刻版ながら 戦前の講談社の絵本『木村重成』がありました)
さて_ 第六代大阪府知事を勤められた西村捨三(ステゾウ)という方は木村重成のファンだったそうです。(西村捨三さんは元彦根藩士。木村重成は「敵」になる訳ですが)

ここからの話は ネットのまた聞きを打つより 田夫野人(田野 登)さんのブログ 『晴耕雨読』の記事を「リブログ」させて頂きましょう。(とても私の力では ネタ元の『御祭草紙』まで行きつけませんでしたよ・・・)


_で、粗くまとめますと西村捨三さんは 木村重成が現代(明治時代)の人から正当に評価されていない事を残念に思われ 小林佐兵衛という方と二人で発起人となってこの碑を立てられた。(M.29年)  当時ここには秀吉を祀る豊國神社(M.13年~)があったのですね。(秀吉も明治になって再評価された人) 木村重成を顕彰するに相応しい場所です。ところが神社はその後(S.36年) 大阪城の南の現在地へ移ってしまい・・・ 石碑だけが残った_ んですってー。/へ~っ。

いやいや ヤヤコシクも濃く 面白い話でございます。/おしまい。