多田神社 | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

川西にある清和源氏の霊廟_多田神社へ行ってみました。

(丁度万灯会の日で(実際に伺ったのは8/26) 境内地周辺には沢山の提灯が下っていました)
石段下の石柱には「史跡 多田院」と刻まれています。
明治の廃仏毀釈で神社になっていますが、元々は天禄元年(970年)に 多田源治の祖:源満仲(神号:多田大権現) によって建立された天台宗の寺院だったんですね。(鎌倉時代に真言律宗のお寺となって明治を迎えたようですが)

石段を上った先の門:南大門。元々は仁王門でした。(ここに安置されていた金剛力士像は川西市内の満願寺に移されているそうです。)

(↑門の扁額の文字は「多田大権現」)
几帳には白地に浅葱(アサギ)の笹竜胆(ササリンドウ)紋(←清和源氏のシンボル)が染められています。涼やか―。

門の内も 提灯で一杯。

本殿へ続く石畳の道の脇には 説明板 ・・・

境内図や

↓満仲の息子:頼光の鬼退治の歌 などがー

(↑公式HPによると 本殿近くには 「鬼首洗池」もあるんですって)
左手に手水処がありました。



その先には社務所が。

そして随神門。

門の左右には随身姿の神様達。
右側の門守(カドモリ):豊岩間戸尊(トヨイワマドノミコト)さん。(左近に相当するのかお年寄風)

左側の門守:櫛岩間戸尊(クシイワマドノミコト)さん。(右近に相当するのか若者風)

神門の先も 提灯提灯提灯~ でした。

正面に拝殿。

中には祈祷を受ける方々があり 神主さんが祝詞をあげていらっしゃったので 脇からそーっとお賽銭を・・・。

こちらは 清和源氏の霊廟との事で、創建者の源満仲の他 その子:頼光、頼信。頼信の子:頼義、その又子の義家が祀られているそうです。そして境内の御神廟には満仲 頼光の御霊とともに 源氏の流れをくむ足利家の将軍達の遺骨も分骨されているんですって。又 徳川氏もこの多田院を大切にしたそうで、 戦国末期の有岡城(伊丹城)の戦いの余波で焼かれた多田院は 四代将軍家綱によって再建されたといいます。(へー)


ありがとうございました。
戻って参ります。


南門から猪名川にかかる橋:神橋を見下ろしたところ。

神橋を渡ります。

橋から川上を見たところ

川下を見たところ。

(猪名川というと私にはイオンに行く度渡る見慣れた「幅が広く浅い砂地の川」 ですが、少し上の多田では川底に岩が露出しており流れも急。 こうも表情が違うのかー、です。)


創建者:源満仲という人についてのWikiの項には、 武官貴族が陰謀渦巻く時代を 生きるために 土地を得 開拓し 武力集団を形成していく様が具体的に書かれており、読んで興味深かったです。 (時代+登場人物が『大鏡』とかぶってまして)『大鏡』に描かれている貴族の(うわべは)雅な世界~ の裏で ちゃくちゃくとその次の武士の世は形成されていたんだー って感じで。 / 『大鏡』と『多田源氏の物語』を歴史の「表舞台」と「裏舞台」として描く大河ドラマ なんて観てみたいかもー。



<とりびあ~♪>
神社の公式HPに 三ツ矢サイダーのリンクが張ってあって どういう関係なのかしらと思ったらー Wikiの「三ツ矢サイダー」に以下の話がー / 朝廷より摂津の国を拝領した源満仲が どこに居城を建てるべきかを住吉大社に参拝してお伺いを立てたところ「矢を射て その矢の落ちた所に」というお告げがあった。満仲が鏑矢を射るとそれは多田で見つかった。矢を拾った孫八郎に満仲は「三ツ矢」の姓と紋そして領地を与えた。 この三ツ矢孫八郎の子孫が三ツ矢サイダーの創始者になった~。。。///へ~っへ~っへ~っ