
あれ?てっきり 表にどどんと「特別拝観」の案内板があるのかと思ったのですが何もありません・・・/チケットブースにも何の案内もなかったので 「またやったのか私は」と不安になり 係り員さんに「すみませーん 今こちらで 蕪村の襖絵が見られる と聞いてやってきたのですがー」と尋ねたら 「はいご覧いただけますよ。中の本堂前でお待ちください、時間を区切って受付をしております」との事ー

↓500円の拝観料を納め 境内に入ったところー(庫裡の南の庭、です)

↓銀閣の手前に やっと最初の看板がありました。

↓角を曲がると 大きな看板がありました。

↓本堂への上り口。受付はどうやらここ のようです。(約一時間に一回 案内付で拝観できるんですね?11:40の回を今案内中なんだ。次の12:40の回に参加させてもらいましょう。/ 40分近くも待たないとならなかったのですが 一回の定員がわずか25名なので くるり と回ってる間に定員オーバーになったら大変なので、 ひたすら待ちましたー)

(↓待ってる間に撮った絵。手前が本堂。奥が東求堂です)

時間がきました。拝観料1000円を納めて本堂へ上がります。(内部は撮影禁止ですが、本堂から庭を撮るのはOKでした。↓これは本堂前の縁から撮った 銀閣。手前の砂庭は銀沙灘(ギンシャダン)。奥の砂山は「向月台」。 銀沙灘に使われる砂には雲母や石英が多く含まれていて、夜は月あかりに ほう と光るのですって。 月に一度 砂をつき固めて造るそうです。

本堂と東求堂を繋ぐ渡り廊下のたもとにある手水鉢。

前回 銀閣寺に来た折にも撮っておりますが、今回は 裏 からも撮れましたぞ?

東求堂前から 銀沙灘越しに銀閣を(ちらと)臨む。

東求堂の南側。(内部は撮影禁止)

堂前の池_ ぽつん と浮いている石は坐禅石。(ここが臨済宗のお寺である事を は と思い出させる石 ですね)

(画像はありませんがー )
本堂(方丈とも)の南面する三間のうち 西の間 と 本尊前の間に、 与謝蕪村の、そして
東の間に、池大雅の襖絵がありました。ネットで見て 随分と台紙が白かったので 「これは この頃よくある「精巧なコピー」で 本物は美術館にでもあるのだろう」と思っていたのですが、 全て本物、でした。紫外線で傷まないように 200年以上大切にされてきた という事でしょう。/ 絵は 臨済宗のお寺に相応しく という事か 全て南宋風のものでした。(NHKの「ヒストリア」で知りましたが、当時は画家のための「図画集」のような物があったのだとか。確かに そういう物なしには 異国の風景・人物・動物は描けませんよねー)
本堂は一度焼失しており、今あるものは1615年に建てられた物をもととしているそうです。蕪村や大雅は江戸中期の人ですから おそらくその頃 修復が行われたのでしょう。 南宋の絵は「南画」と呼ばれますが、 これは絵の技術 ではなく それを描いた人の文人としての質 が問われた、のだそうです。 ふむふむ、それでこの二人が その時代の「文人画家」として選ばれたのですねー? / 色々 なるほど でした。
東求堂は、足利義政(1436-1490)が隠居所の山荘として造らせた建屋で、一度も建て替えが行われていません。銀閣同様「国宝」です。仏間には法衣を纏った義政の木像もありました。
堂内の四畳半書院「同仁斎」では 当時のままの床飾りがされていました。(なぜ室町時代の床飾りが分かるかというと、 当時の記録が残っているのだそうです!へー)
銀閣の完成は義政の死の翌年ですが、東求堂は1486年には完成していたといいますから 義政は東求堂の縁から 池の向こうに 建築中の銀閣を眺めたに違いありません。

↓今回もらったパンフレット。銀閣寺の歴史の他 襖絵についても写真と解説が載っていて有難かったです。(紙質もよく立派なもの)

国宝 東求堂は何しろな年代もので、床がきしむ箇所もありました。係員さんが「鴬張りではありません」と言うのに 見学者達は苦笑しておりました。 特別拝観について大々的にPRしないのも 一度の受け入れ可能人数がごく限られていることから のようでした。という訳で、 なんだか 大きな字では打ちにくうございますが、
皆様 機会がありましたら 是非、本堂の襖絵 国宝の東求堂を ご覧になられませー。(おしまい)