HSCシンポジウムのレポート、前回の続きです。

前回の記事下差し

『差次感受性〜HSCシンポジウムにまつわるエトセトラその①〜』先日、富山国際会議場にて開催されたHSCシンポジウム。書きたいことが満載ですが、まずはその①シンポジウムの内容について、私の中で整理してまとめたレポートのよう…リンクameblo.jp

エトセトラその②は、明橋先生のHSCの基礎知識のお話に出てきた「ニューロダイバーシティ=神経多様性」について。


ニューロダイバーシティとは?

下差し

・「神経多様性」という。

・「生物多様性」と同じように、神経の発達にも多様性がある。多様な種が存在することに意味がある。

・自閉スペクトラム症、ADHD、HSC、あるいは定型発達、さまざまな違いがあるが、それぞれに役割があり、そこには、病気であるとかないとか障がいであるとかないとかの区別はない。

単なる「違い」「多様性」である。

HSCシンポジウム資料より引用


私が日々感じていることと合わせて、先生のお話を聴いて考えたことをまとめてみます。


人は周りと同じであることで安心感を得ていて、自分と違う考えや気質の人を理解できずに警戒し敵対視し、攻撃したり排除しようとする傾向にあると感じてきました。

もちろんそうではない人もいますが、それは自己肯定感がしっかりと育まれていて安心感と自信があり、自分も人も大切にできる人だと思います。


人はみんな違って当たり前なのに、自分が人と違うと不安で、人と同じであろうとする。

だから生きづらさを感じてしまう。

違っていても、みんなそれぞれに存在意義があるのに。

定型発達とかHSCとかADHDとか自閉スペクトラム症とか…何を基準として何が正常で何が障害かなんて、誰にも決められることじゃないのに、どうしてそんな風に区別しないと理解できないのだろう。


HSC(HSP)の概念を知った時に私の中でこのことが明らかになったような気がしました。

私自身が自分のことすら理解できていなくて、それまで周りと違う自分にフタをしていたからです。


そして、知ることで「人と違っていてもいいんだ」「私は私で良かったんだ」「こんな風に感じていたのは私だけじゃなかったんだ」と安心するけれど…

その安心の先に、今度は「私は悪くない。じゃあ私とは違うあなたが悪い」という思いがフッと生まれるのを感じる。

それでは本当の自分を知った意味がない。


環境が変われば誰もが多数派になったり少数派になったりします。

違いを尊重し合えなければ、同調圧力の強い世の中では、いつだって誰かが生きづらさを抱えていることになります。

誰が良くて誰が悪いとかない、誰もがありのままで良くて、それを非難したり自分の主張を無理やり相手に押しつけたりする権利なんて、誰にもないと思っています。


私はHSCの概念を広げる活動をしていますが「HSCは特別な存在なんだ」とか「特別に扱ってほしい」とか、そんなことを伝えたいのではありません。


では、活動を通して結局何を伝えたいのか?どうなることを願っているのか?

「HSCであるとかないとかだけでなく、どんなことでも特別なものとしてカテゴライズされることなく、人はみんなそれぞれ違うんだ、違っていいんだと、当たり前に認識されること」

「自分と違う部分を共感できなくても『あなたはそうなんだね』とお互いを尊重し合えること」

「いつか、HSP・HSCカウンセラーという仕事がなくなること(誰もがセルフカウンセリングできるようになること)」

これが、私の活動をする目的、活動の先にある最終目標です。


シンポジウムが終わって、私と同じような思いを感想にあげてくださっている方がたくさんおられて、とても嬉しく感じました。


シンポジウムにまつわるエトセトラ…まだ序盤です。

お付き合いくださると嬉しいです。


その③下差し

補足したかったこと〜HSCシンポジウムにまつわるエトセトラその③〜Published by Ameba Owndリンクnuken.amebaownd.com



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