真言も祝詞もネタ切れなので、なんとなくそれ系の
お話などを――
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真言を唱える際、修法者は指で印を結びます。
(↑)御存知ない方、こういうやつです。
ちなみにこれは大日如来の智拳印。
元々、インドでは手や指の形や仕草を用いて表現する
ことを手段とする伝統があったようで、これが結印の
起源となります。
その最たるものとして、インドの古典舞踊の世界に於いて、
様々な手指の形で感情や行動を表する「ムドラー」という
ものがありました。
そのムドラーの起源は紀元前1500年頃、バラモン(祭祀者)が
儀礼の際に用いていた手の振りであるとのこと。
このバラモン、
仏教そのものの誕生の切っ掛けでもあります。
とは言っても、仏教はこのバラモンの否定(主にカースト制の否定)
から始まったものであり、反面教師的な意味合いでの切っ掛け
なんですが。
であるのに、何故に結印が仏教にあるのか?
それは、6~7世紀ごろに起こった「タントリズム」と呼ばれる
インド的な宗教運動のためであり、この運動により古代インドの
宗教的要素が段々と仏教に組み込まれていき、その際に
ムドラーもまた盛り込まれたようです。
結印が初めて著された仏教の経典は、6世紀に成立した
『牟梨曼荼羅呪経』で、タントリズムの初期の段階で結印は
受け容れられたようです。
日本に於ける神仏習合のようなことが、過渡期の仏教にも
起こっていたということですね。
ただし、その時はほんの19種の印しかありませんでした。
ところが現在、
宗派による異なりなども含めれば、結印は数千種にも及ぶほど
に増えてしまっているのだとか・・・・。
また、
ムドラーから続く本来の結印の意味は感情の表現手段でしたが、
後には、
仏尊が衆生に対して発した誓願や、仏尊そのもののシンボル化
という意味合いに変化していきました。
真言が、長きに渡って観念しながら唱え続けられたことより、
仏尊と通じる力を得たのと同じく、
結印もまた真言と共に結ばれてきたことにより、その印形
だけで仏尊と繋がる力を得たものでありましょう。
(つづく・・・かも)