織田信長(アスペ当事者)と金ヶ崎の退口

鵜呑みにしやすい特性 

<織田信長7>

※金ヶ崎の退き口の場面2

※個人的な見解も多く含んでいます。

【投稿日 令和4年6月10日】

 

 

 

1 はじめに

(1)アスペルガーの特性(今回のブログと関係がある特性のみ記載)

【アスペルガーの特性(特に受動型)】

鵜呑みにしやすい。だまされやすい。物事を言葉通りにとらえる傾向が強い。他人の言葉をそのまま受け止めてしまう。⇒「まさか……になるとは思わなかった」ということが何度も起こる原因の一つ

・臨機応変に動くことが困難。急な変更にうまく対応できない。

・予想外のことが起こるとパニックになる

(その他の特性については記載省略)

 

※上記の特性は、アスペルガーの中でも、特に受動型アスペルガーによく見られる特性です。

<参考>

 

 

(2)鵜呑みにしやすい特性に関して

 発達障害に関するブログ等を見ていると、「鵜吞みにしやすい」「だまされやすい」という特性のため苦労しておられる様子がうかがえることが時々あります。また、私自身も、鵜吞みにしやすい特性のため、ひどい目にあったことも多々あります。織田信長に関する一次史料である太田牛一著『信長公記』にも、下記の通り、鵜吞みにしやすいアスペの特性が信長にもあった、と思われる箇所があります。

 

 

(3)織田信長の場合

 織田信長は受動型アスペルガーではないと思いますが、『信長公記』の記述から、アスペルガーであることを証明できます。そして、信長についても「鵜呑みにしやすい」特性があることを、今回再度取り上げる金ヶ崎の退き口の場面から証明できると私は考えています。(私見)

 そして、織田信長については、下記にて記載の通り、「鵜呑みにしやすい」アスペルガーの特性のため、金ヶ崎の退口の場面で命を落としかけたのも確かだと思います。(私見)

 下記#㋐9のブログにて一度取り上げておりますが、今回のブログでは、改めてこのことについて記載しようと思います。

※金ヶ崎の地図等についてもこの過去ブログにて引用しております。

 

 

(4)今回のブログでは

 上記(2)及び(3)の事情により、改めて、アスペルガーの特性のうち「鵜吞みにしやすい」という視点から改めて織田信長の場合についてブログを投稿します。

 

 

(5)参考までに

【金ヶ崎の退き口についての通説】

 

 今回のブログに関する、織田信長の動きに関する通説を簡単にまとめると次のような感じになります。

 

(永禄3年以前の経過は省略)

・永禄4年(1561年)? 

 織田信長、妹のお市の方を北近江(今の滋賀県北部)の浅井長政に嫁がせ、長政と同盟を結ぶ。(この時既に、浅井家は越前の朝倉家とは強固な同盟関係にあった)

・永禄10年(1567年) 

 織田信長 美濃国(今の岐阜県)平定

・永禄11年(1568年) 

 織田信長、足利義昭を奉じて上洛。足利義昭を室町幕府第15代将軍にすえる。

・元亀元年(1570年)

 織田信長、越前国(今の福井県)の朝倉義景を攻める(義景が上洛命令を無視したため、といわれている)。

 その際、朝倉家と同盟を結んでいた浅井長政(信長の妹お市の方の夫)の裏切りにより、挟み撃ちの危機に見舞われ、ほうほうのていで撤退した。これは、いわゆる金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)と言われている。

(これ以後の経過は今回は省略)

 

※ウイキペディア、『現代語訳 信長公記』(ちくま学芸文庫)の巻末の解説、『織田信長 不器用すぎた天下人』(著者:金子拓)(河出書房新社)を元にまとめました。

 

 

 

 

 

 

2 『信長公記』における記載

 今回のブログを書き進めていくにあたり、太田牛一著『信長公記』の該当部分をお示ししておく方がよいと考えられますので、以前のブログにおいても引用しておりますが、再度引用します。

<引用>  

 

※引用元:『信長公記』(太田牛一著、奥野高広・岩沢愿彦 校注)(角川日本古典文庫)のP106~107

※ピンク色の線⇒ソロ鉄ブログ管理者が加工

※引用理由:金ヶ崎の退き口の場面から、信長がアスペルガー症候群であることを証明するため。

 

<ソロ鉄ブログ管理者補足説明>

①今回引用した箇所は、1570年の信長による越前朝倉攻めの最中に浅井長政が裏切る場面。

②この場面は、いわゆる金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)と呼ばれている場面

 

※地図については、上記#㋐9のブログの方をご参照ください。

 

 <Pick>

  

 

 

 

 

 

3 信長の「鵜吞みにしやすい」アスペの特性と金ヶ崎の退き口

 

<織田信長の「鵜吞みにしやすい」アスペルガーの特性と金ヶ崎の退口>

 織田信長は、元亀元年(1570年)、越前朝倉攻めの最中に、実の妹(お市の方)の夫で同盟者である浅井長政(浅井家は朝倉家とも同盟関係にあった)の裏切りに遭いますが、信長は当初、浅井長政が裏切るはずがないと、長政裏切りの報告を頑なに信用しませんでした。(私見)

 この時の状況については、『信長公記』の上記引用箇所の通りですが、そのうち要点になる箇所のみ再度引用します。

<引用>

「(前略)浅井は歴然の御縁者たるの上、あまつさえ江北一円に仰せ付けらるるのあいだ、不足これあるべからずの条、虚説たるべしと思し召し候。方々より事実の注進候。是非に及ばず、の由候て(以下略)」

※引用元:『信長公記』(太田牛一著、奥野高広・岩沢愿彦 校注)(角川日本古典文庫)のP106~107

 

 

 この箇所について、『現代語訳 信長公記』(ちくま学芸文庫)、『織田信長 不器用すぎた天下人』(著者:金子拓)(河出書房新社)等を参考にまとめると、次の通りになるかと思います。以前のブログにおいても記載しましたが、再度掲載します。(私見)

 織田信長は、越前国(現福井県)の敦賀に軍を進め、いわゆる朝倉攻めを行っていたが(元亀元年)、浅井長政(信長の妹お市の方の夫)が裏切ったという知らせが信長のもとに届いた。ところが信長は、妹のお市を嫁がせたうえ、江北一円(今の滋賀県北部)の支配を任せていたので、浅井長政は絶対に裏切るはずがないと頑なに思い込み、報告を信じようとしなかった。しかし、その後も様々な方面から長政が裏切ったとの報告が相次ぎ、長政裏切りを確信せざるを得なくなり、「是非に及ばず(しかたのないことである)(とにかくいまは考えている余裕などない、即時に戻ろう?)」と発言し、撤退することにした。金が崎城に木下藤吉郎(のちの羽柴秀吉、豊臣秀吉)を残すこととし(つまり秀吉に殿(しんがり)を任せ)、近江朽木経由で京都まで撤退した。

 

※これは、いわゆる「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる退去戦。

※前回の#㋐9のブログにて記載した要旨と少し表現を変えています。

 

 これを更に意訳すると、次のような感じになると思います。前回のブログにおいても記載しましたが、再度掲載します。(私見)

 織田信長は、浅井長政に実の妹(お市の方)を嫁に出すとともに北近江の支配を任せたので、朝倉氏を攻撃しても浅井長政が自分を裏切ることは絶対にないと信じ込んでいたため、長政が裏切った時の対策は全くせずに朝倉攻めを行った。

 越前国内深くまで攻め入ったタイミングで、長政裏切りの報告が来たが、長政を完全に信じていたためその報告はウソだと信長は頑なに思った。お市を嫁がせて同盟を結び、江北一円の支配を任せていたことから、(鵜吞みにしやすいアスペの特性のため)信長は長政を完全に信用していた。

※前回の#㋐9のブログにて記載した要旨と少し表現を変えています。

 

 

<私見>(再掲)

 前回のブログでも記載していますが、この金ヶ崎の退き口の場面と信長のアスペルガーについて更にまとめると、次の通りになるかと思います。(前回の#㋐9のブログにて記載した表現と少し表現を変えています)

<金ヶ崎の退き口と信長のアスペルガー>(私見)

 

 お市の方を嫁がせたこと等により、信長は浅井長政を100%完全に信用してしまい、長政が裏切るという想定は全くせずに朝倉攻めを断行した。実際に長政の裏切りにあった時も、最初は長政の裏切りを信じることができなかった。

 また、長政裏切り説を虚説と言った場面から、浅井長政が裏切った場合のことを一切考えずに朝倉攻めを行ったと考えられる。

 戦国時代の場合、仮に妹や娘を他の大名に嫁がせ同盟関係を結んだとしても、戦(いくさ)の際には、同盟者が裏切ることも想定して進めるのが普通であり、戦の最中に裏切りの報告が来たら、裏切った場合の行動に移るのが普通だと思われるが、信長の場合は、浅井長政を過信し、長政が裏切るとは全く考えず(長政が裏切ったときの対策等は何もせず)、朝倉攻めを断行してしまったと解釈できる。

 これは、アスペルガーの特性のうち「鵜呑みにしやすい」「だまされやすい」等の特性に該当し、言い換えれば、信長のアスペルガーの特性(この場合は「鵜呑みにしやすい」「だまされやすい」等)のため、お市の方と結婚した長政を信長は完全に信用し、長政裏切りの報告が来ても信じなかった。(『織田信長 不器用すぎた天下人』P31によると、裏切りの報告をはじめは信じなかった点は、松永久秀や荒木村重の場合と共通している、とのこと)

 

 ちなみに、長政裏切りの報告が相次いで長政裏切りを確信せざるを得なくなった時点で有名な「是非に及ばず」の言葉が信長の口から出てきたが、『織田信長 不器用すぎた天下人』P32によると、「是非に及ばず」は「とにかく今は考えている余裕などない。即時に戻ろう」という意味ではないか、とのこと。

 更に、『織田信長 不器用すぎた天下人』P162によれば、この「是非に及ばず」は、「(嬉しくない出来事に直面して)驚いた時、咄嗟に口に出る「考えられない」という感嘆詞が近いのではないか。」とのこと。

 この説が正しい場合、一般的なアスペルガーの特性の中の「臨機応変に動くことが困難」「急な変更にうまく対応できない」「予想外のことが起こるとパニックになる」という特性があてはまると思われる。

 

 この金ヶ崎の退口と呼ばれる撤退戦は非常に過酷で命を落とす危険性が極端に高いと考えられるため、織田信長は「鵜呑みにしやすい」「だまされやすい」等のアスペルガーの特性のため、この金ヶ崎の退き口の場面で命を落としかけた、という話になると思われる。また、撤退する信長よりもはるかに危険な殿(しんがり)をつとめた木下藤吉郎秀吉(のちの羽柴秀吉、豊臣秀吉)も、信長の上記アスペルガーの特性のため命を落としかけた、という話になると思われる。

 

 

 

 

4 まとめ(私見)

 

<まとめ1>(私見)

①織田信長は、(浅井長政に実の妹を嫁に出し北近江の支配を任せたことにより)アスペルガーの「鵜吞みにしやすい」特性のため「浅井長政は絶対に裏切らない」と100%長政のことを信用してしまった。

②①のため信長は、朝倉攻めに際しても「浅井長政は絶対に裏切らない」と思い込み、長政が裏切った時の対策は全く立てずに朝倉攻めを断行してしまった(元亀元年)

③②に際し、長政が裏切った際も、また長政裏切りの報告が来ても「長政は絶対に裏切らない」と完全に長政を信用し続けてしまった(アスペルガーの「鵜吞みにしやすい」特性のため)

④①~③のため、信長は命を落としかけた(金ヶ崎の退き口の場面で)。更に、殿(しんがり)をつとめた秀吉等も命を落としかけた。

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<まとめ2>(私見)

①織田信長は、アスペルガーの「鵜吞みにしやすい」等の特性のため浅井長政を100%完全に信用してしまい、金ヶ崎の退き口で命を落としかけた。

②①のため、殿(しんがり)を務めた秀吉等も命を落としかけた。

 

 

 

 

 

【参考文献】

ウイキペディア

『信長公記』(太田牛一著、奥野高広・岩沢愿彦 校注)(角川日本古典文庫)

『現代語訳 信長公記』(ちくま学芸文庫)

『織田信長 不器用すぎた天下人』(著者:金子拓)(河出書房新社)

 

 

 

 

 

 

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※誤字脱字等があれば、その都度訂正します。

※引用箇所について転載等禁止

本日も最後までご覧いただきありがとうございました。