浅井長政を完全に信じた織田信長
&金ヶ崎の退き口
<織田信長2>(証明編)
※金ヶ崎の退き口の場面
※個人的な見解も含んでいます。
【投稿日 令和3年7月6日】
【修正 令和4年7月25日】
1 はじめに
(1)アスペルガーの特性(R4.1.15追記、R4.7.25修正)
(今回のブログと関係がある特性のみ記載)
・臨機応変に動くことが困難。急な変更にうまく対応できない。
・予想外のことが起こるとパニックになる
(その他の特性については記載省略)
<参考>
<一般的に言われていること>
(2)金ヶ崎の退き口についての通説(R4.1.15、R4.7.15修正)
今回のブログに関する、織田信長の動きに関する通説を簡単にまとめると次のような感じになります。
(※永禄3年以前の経過は省略)
<永禄4年(1561年)?>
織田信長、妹のお市の方を北近江(今の滋賀県北部)の浅井長政に嫁がせ、長政と同盟を結ぶ。(この時既に、浅井家は越前の朝倉家とは強固な同盟関係にあった)
<永禄10年(1567年)>
織田信長 美濃国(今の岐阜県)平定
<永禄11年(1568年)>
織田信長、足利義昭を奉じて上洛。足利義昭を室町幕府第15代将軍にすえる。
<元亀元年(1570年)>
織田信長、越前国(今の福井県)の朝倉義景を攻める(義景が上洛命令を無視したため、といわれている)。
その際、朝倉家と同盟を結んでいた浅井長政(信長の妹お市の方の夫)の裏切りにより、挟み撃ちの危機に見舞われ、ほうほうのていで撤退した。これは、いわゆる金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)と言われている。
(これ以後の経過は今回は省略)
※ウイキペディア、『現代語訳 信長公記』(ちくま学芸文庫)の巻末の解説、『織田信長 不器用すぎた天下人』(著者:金子拓)(河出書房新社)を元にまとめました。
2 戦国大名としてはあり得ない?信長の状況(R4.7.25修正)
(1)信長公記の内容等
上記の通り、織田信長は、元亀元年の越前朝倉攻めの最中に、妹(お市の方)の夫で同盟者である浅井長政(浅井家は朝倉家とも同盟関係にあった)の裏切りに遭います。この時の状況について、『信長公記』には次のように書かれています。
※引用元:『信長公記』(太田牛一著、奥野高広・岩沢愿彦 校注)(角川日本古典文庫)のP106~107(「金ヶ崎の退き口」の箇所)
※ピンク色の線⇒ソロ鉄ブログ管理者が加工
※引用理由:織田信長がアスペルガー症候群であることを証明するため、引用する必要があった。また、古文であるため、そのままの文字で引用する必要があった。
<ソロ鉄ブログ管理者補足説明1>
①今回引用した箇所は、1570年の信長による越前朝倉攻めの最中に浅井長政が裏切る場面。
②この場面は、いわゆる金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)と呼ばれている場面<R4.1.15追記>
<ソロ鉄ブログ管理者補足説明2>
上記引用箇所のうち、今回のブログで特に重要な箇所は「浅井は歴然の御縁者たるの上、あまつさえ江北一円に仰せ付けらるるのあいだ、不足これあるべからずの条、虚説たるべしと思し召し候」である。(難しい字の箇所は簡単な字に直して表記)
<参考>
<引用>
※引用元:『現代語訳 信長公記』(ちくま学芸文庫)P127
※引用理由:今回のブログで取り上げることは、地図がないと分かりにくいと思われるため
<参考>
<引用>
※引用元:『織田信長 不器用すぎた天下人』(著者:金子拓)(河出書房新社)
※引用理由:1570年の、織田信長による朝倉攻めの経過や経路を理解するのに必要であるため
(2)要旨(私見)
この箇所の要旨については、『現代語訳 信長公記』(ちくま学芸文庫)、『織田信長 不器用すぎた天下人』(著者:金子拓)(河出書房新社)等を参考にまとめると、次の通りになるかと思います。(R4.7.25修正)
織田信長は、越前国(現福井県)の敦賀に軍を進め、いわゆる朝倉攻めを行っていたが、浅井長政(信長の妹お市の方の夫)が裏切ったという知らせが信長のもとに届いた。ところが、信長は、妹のお市を嫁がせたうえ江北一円(今の滋賀県北部)の支配を任せていたので、浅井長政が裏切るはずはなく、長政裏切りはウソであると頑なに思った。しかし、その後様々な方面から「長政が裏切った」との報告が相次いで来たため、長政の裏切りを確信せざるを得なくなり、信長は「是非に及ばず(しかたのないことである)(とにかくいまは考えている余裕などない、即時に戻ろう?)」と発言し撤退することにした。金が崎城に木下藤吉郎(のちの羽柴秀吉、豊臣秀吉)を残すこととし(つまり秀吉に殿(しんがり)を任せ)、近江朽木経由で京都まで撤退した。これは、いわゆる「金ヶ崎の退口(のきぐち)」と呼ばれる退去戦である。
これを更に意訳すると、次のような感じになると思います。
朝倉氏を攻撃しても、妹の夫である浅井長政は自分を裏切るはずがないと信長は信じ込んでいたため、越前国の朝倉攻めを断行した(しかも浅井家の裏切りは想定せずに断行)。越前国内深くまで攻め入ったタイミングで、浅井長政の裏切りの報告が来たが、長政を完全に信じており、その報告はウソだと信長は頑なに思った。お市を嫁がせて同盟を結び、江北一円の支配を任せていたことから、信長は長政を過信し、完全に信じ切っていた。
(3)織田信長がアスペルガーであることの証明等(私見)
①信長がアスペルガーであることの証明(私見)
お市の方を嫁がせたこと等により、織田信長は浅井長政を100%完全に信用してしまい(換言すれば、信長は長政を過信していた)、実際に裏切りにあっても、最初は長政の裏切りを頑なに信じませんでした
しかも、長政裏切り説を虚説と言った場面から、浅井長政が裏切った場合のことを一切考えずに朝倉攻めを行ったと考えられます。
さて、戦国時代の場合、仮に妹や娘を他の大名に嫁がせ同盟関係を結んだとしても、戦(いくさ)の際には、同盟者が裏切ることも想定して進めるのが普通であり、戦の最中に裏切りの報告が来たら、裏切った場合の行動に移るのが普通だと思われますが、織田信長の場合は、お市の方を嫁がせたことで浅井長政を完全に信用し、裏切られるとは全く考えず(長政が裏切ったときの対策等は何もせず)、朝倉攻めを断行してしまったと読み取れます。
これは、一般的なアスペルガーの特性のうち、「だまされやすい」「鵜呑みにしてしまう」等の特性があてはまります。言い換えれば、信長のアスペルガーの特性(この場合は「だまされやすい」「鵜呑みにしやすい」等)のため、お市の方と結婚した長政を信長は完全に信用し、長政裏切りの報告が来ても信じなかったわけです。(上記『織田信長 不器用すぎた天下人』P31によると、裏切りの報告をはじめは信じなかった点は、松永久秀や荒木村重の場合と共通している、とのこと)
このことから、織田信長はアスペルガーであることが証明できると考えます。
②参考 是非に及ばず(私見)
ちなみに、長政裏切りの報告が相次いで長政裏切りを確信せざるを得なくなった時点で有名な「是非に及ばず」の言葉が信長の口から出てきました。上記『織田信長 不器用すぎた天下人』P32によると、「是非に及ばず」は「とにかく今は考えている余裕などない。即時に戻ろう」という意味ではないか、とのことです。
更に、上記『織田信長 不器用すぎた天下人』P162によれば、この「是非に及ばず」は、「(嬉しくない出来事に直面して)驚いた時、咄嗟に口に出る「考えられない」という感嘆詞が近いのではないか。」とのことであります。
この説が正しい場合、一般的なアスペルガーの特性の中の「臨機応変に動くことが困難」「急な変更にうまく対応できない」「予想外のことが起こるとパニックになる」という特性があてはまると思われます。
結局、今回取り上げた内容から、織田信長はアスペルガー症候群であることが証明できると考えます。
(4)更に言うと(私見)(R4.7.25追記)
上記(3)で記載したことについて更に言うと、信長のアスペルガーの特性(今回は鵜呑みにしやすい、騙されやすい等)のため、信長は金ヶ崎の退き口で命を落としかけた、ということが言えると考えられます。そして、信長のアスペルガーの特性のため、金ヶ崎の退き口で殿(しんがり)を務めた秀吉等の命も危険にさらした、ということが言えると考えられます。
これについては、次のブログで論じておりますので、ご参照ください。
<参考文献>
ウイキペディア
『信長公記』(太田牛一著、奥野高広・岩沢愿彦 校注)(角川日本古典文庫)
『現代語訳 信長公記』(ちくま学芸文庫)
『織田信長 不器用すぎた天下人』(著者:金子拓)(河出書房新社)
<Pick>
<参考>
令和3年(2021年)時点において、京都から福井県敦賀市に行く場合、新快速で行く方法と特急サンダーバードで行く方法があります。
<参考>
※令和3年7月4日京都駅にて自分で撮影した新快速
<参考>
令和3年6月25日、京都駅にて自分で撮影した特急サンダーバード。出発直前に撮影。
※今回のブログと直接関係のない花の写真については削除しました。(R4.7.25)
<Pick2>
※誤字脱字等があれば、その都度訂正します。
※引用箇所について転載等禁止
本日も最後までご覧いただきありがとうございました。