織田信長(アスペ当事者)の癇癪をしずめる方法

上書きによるリセット・場面転換

信長の癇癪がしずまった件

(織田信長6)

※個人的見解も記載

※証明編、分析編

(上書きによるリセット・場面転換は当ブログ独自用語)

【投稿日 令和4年2月18日】

【修正等 令和5年4月25日等】

 

 

 

1 はじめに

(1)発達障害者の癇癪(かんしゃく)と今回のブログの内容

 Amebaブログにおいても、発達障害者のお子様を育てておられる親御様のブログが多数ありますが、発達障害者の癇癪(かんしゃく)や暴力等でかなり悩んでおられます。

<事例> (ASDとADHDのまるちゃん日記のブログ)

 

<事例(R4.3.7追記)>(ASDとADHDのまるちゃん日記のブログ)

 

 

<事例(R4.2.24追記)>(幸せだったはずの2年間は幻だったのブログ)

 

<事例(R4.3.18追記)>

(息子よ、その理不尽さは発達障害のせいなのか?のブログ)

 

 

 私もそうですが、何らかの理由で発達障害者(特にアスペルガー)が癇癪を起すことが実際に多々ありますが、そのしずめ方については人によって異なり、正直私にも分からないです(無責任と非難されるかもしれませんが…)

 しかし、織田信長に関する一次史料である、太田牛一著『信長公記』(以下「太田牛一著『信長公記』」もしくは『信長公記』という場合あり)の中に、アスペルガーである織田信長の癇癪を上書きによるリセット・場面転換によりしずめることのできた事例があることに気づきました。(R5.4.25修正)

 そこで、今回は、全ての発達障害者に当てはまるわけではありませんが、また参考にはならないかもしれませんが、何らかの参考になればうれしく思い、そのことについて投稿することにしました。

 

 

(2)アスペルガー症候群の特性

今回のブログで関係のあるアスペルガー症候群の特性は次の通りです。(R5.4.25修正)

・こだわりが強い

・想定外のことでパニックになる

・思い通りにならなければ癇癪(カンシャク)を起こす。自分の言うことを聞かなかったら癇癪を起こしたり暴れたりする場合がある。

・アスペルガー症候群の人の発言は、深い意味はなく、言葉どおりの意味しか持たない。

・裏表がない。表と裏がなく腹黒い下心などを持たない。

上書きによるリセット・場面転換により癇癪がしずまる場合がある

(その他の特性については記載省略)

<参考>

 

 

<上書きによるリセット・場面転換>

 一般的にはあまり言われていないようですが、アスペルガー当事者が癇癪を起しそうになった時、あるいは癇癪を起したとき、別の何かを起こしたり別の何かを持ってきたりした場合(例:癇癪を起こしているアスペルガーに警察官が話しかけるなど)に癇癪が消滅する場合があります。この現象について私は「上書きによるリセット」「場面転換」と呼んでいます。

 

(R5.4.25追記)

 

 

(3)参考までに(通説)

通説では、次の通りになるかと思います。(1582年=天正10年) 

○1582年3月 武田家滅亡

○1582年4月 織田信長、徳川領経由で安土に帰還

○1582年5月 

・5月15日  徳川家康、駿河国加増の礼のため安土を訪問(15日に到着)

 [5月15日~17日、信長は家康を手厚くもてなす。明智光秀が接待役]

 [5月17日 明智光秀、坂本に帰城し中国(毛利領)出陣の準備]

 [5月19日(5月19日~20日?)⇒信長と家康、安土の惣見寺で舞いと能を鑑賞]

 [5月20日⇒信長、高雲寺にて家康を接待]

・5月21日 徳川家康上洛(その後堺見物へ)

○1582年6月 

・本能寺の変で織田信長切腹

・徳川家康は「伊賀越え」で三河に帰還

 

 

 

2 『信長公記』の記述

『信長公記』巻15-(27)の記述内容は次の引用の通り。

 

<引用>

※引用元:太田牛一著『信長公記』巻15

※赤線を引いた箇所は、信長が癇癪を起こした箇所。水色線は、信長の機嫌が良かった箇所。緑線は信長が思ったりしたこと。

 ※1582年5月15日、徳川家康は安土に到着。家康が安土に滞在中、信長は家康を手厚く接待。

 

【この場面について】

・この場面の一つ目は、5月19日(5月19日~20日?)に安土の惣見寺にて信長と家康が舞や能を観賞する場面。二つ目は、5月20日に高雲寺御殿にて信長が家康を接待する場面。解釈(私見)については下記3の通り

 

(R4.2アップロード)

 

 

 

 

3 上記2引用文についての個人的見解、私見

 上記2『信長公記』の引用文について、『信長公記』の現代語訳及びアスペの視点等を元に意訳すると、次の通りになるのではないかと考えられます(個人的見解)。

 

(1)1582年(天正10年)5月19日  舞いや能の観賞

①桟敷等

 当初の予定では、1582年(天正10年)5月19日に安土の惣見寺で幸若大夫の舞いを観賞し、20日に梅若大夫の能を観賞する予定であった?

 この舞いや能は、家康一行への手厚い接待の一環で、目的は、家康一行の道中での辛労をなぐさめるため。

 お桟敷には、近衛前久、織田信長、徳川家康、穴山梅雪等が入り、お芝居(舞台と桟敷との中間の土間)には信長のお小姓衆、信長のお馬回り衆、信長のお年寄衆、家康のご家来衆が座った。その後の経過は下記②以下の通り

 

②幸若大夫の「大職冠」と「田歌」の舞い

(5月19日)幸若大夫が「大職冠」と「田歌」の舞いを舞ったところ、その舞いは信長のアスペ特有のこだわりに合致しアスペ脳を納得・満足させるものであった(現代語訳では「(幸若大夫の)舞いがよくできたので、信長公のご機嫌はたいへんよろしかった」と記載)

 

③梅若大夫の能(R4.2.24少し修正)

 丹波猿楽の梅若大夫に能を演じさせ、家康一行に見せて、家康一行の道中での辛労を癒したいと信長は思ったので、その能を家康一行に見せることにした。当初信長は、(幸若大夫の舞いの)翌日に演じさせようと言っていたが、幸若大夫の舞いが早く終わり、外がまだ明るいため、梅若大夫の能も(同じ19日?に)してもらうことにした。ところが、この日の梅若大夫の能は信長のアスペ特有のこだわりに合わない能であった(信長公記の現代語訳では「ふできで見苦しかった」と記載)。これは、信長にとって想定外のことだったためアスペ特有のパニックや癇癪に発展し、信長は梅若大夫を折檻し激しく激怒する事態になった。

 〈補足〉

※丹波猿楽の側が、技能の未熟なものを信長の前に出すとは全く考えられません(丹波猿楽サイドでは、誇りを持って猿楽をしていると考えられます)。そして、梅若大夫の能について、当時の定型発達の人は非常に素晴らしい能だと思っていたと考えられます。しかし、信長のアスペ特有のこだわりには合わなかったので、信長は上記の通りパニックと癇癪を起こす事態になったと考えられます。

※癇癪(かんしゃく)→ちょっとしたことにも感情を抑えきれないで激しく怒り出すこと。また、そういう性質や、その怒り。(goo辞書による)(R4.2.24追記)

※折檻(せっかん)→過ちをきびしく指摘することのたとえ。転じて、責めさいなむことや、叱って体罰を加えることのたとえ。(コトバンクによる)(R4.2.24追記)

 

④幸若大夫の2回目の舞い(和田酒盛)

 ③で信長が癇癪を起こす中、信長自身がもう一度幸若大夫の舞いを所望し菅屋九右衛門と長谷川竹を楽屋に派遣した。使者2名は、能の後で舞いをすることは本来のやり方とは異なるが上意(信長の意向)なので何とか再度舞ってもらえるよう幸若大夫に頼みこんだ。その結果、幸若大夫は和田酒盛の舞いを舞った。

 それは、信長のアスペ特有のこだわりに合致する舞いであり、信長のアスペ脳を納得させるものであったため信長のパニックや癇癪がリセットされ、信長は冷静になることができた(現代語訳では「たいへんすぐれたできで、信長公の御機嫌もなおり」と記載)。よって、信長は、幸若大夫に黄金10枚を渡した。

 なお、冷静になった信長は、(冷静になったことで世間一般の自分への評判を気にする特性が復活し)能のできが悪かったからといって梅若大夫に何も渡さなければ、世間の信長への評判が下がると思い、梅若大夫には金子10枚を渡した。

 

 

(2)同年5月20日  信長による家康接待

 (信長自ら膳を据える場面について)

 5月20日、高雲寺御殿にて家康一行(徳川家康、穴山梅雪、石川数正、酒井忠次、その他家康の家老衆)を信長が接待した。信長自身が家康一行の膳を据えるなど家康一行を手厚くもてなした。

 この食事が終わると、信長は家康及びお伴の衆すべてを安土城に招き、かたびらを渡し、再びごちそうを振る舞った。

 

 

 

4 上書きによるリセット(場面転換)で癇癪が鎮まる場合あり(私見)

 上記3の通り、梅若太夫の能は信長のアスペ特有のこだわりに合わなかったため、つまり信長にとっては想定外のことであったため、アスペ特有のパニック及び癇癪に発展し、梅若太夫を信長が折檻する事態になりましたが、その後、幸若太夫が「和田酒盛」を舞って信長は冷静になった(機嫌が直った)、とのことです。これについて考えられるのは、信長が癇癪を起こした後に、信長のアスペ脳を納得させて癇癪を上書きしリセットできる事象が起こったので(今回は、幸若太夫の「和田酒盛」の舞いがそれにあたる)、癇癪がしずまり冷静になった、と考えられます。冷静になったため、機嫌が良くなったように見えたと考えられます。

 冷静になれたので、信長は、世間の評判について気にする本来の信長の特性も復活し、(幸若太夫には黄金10枚を渡したので)梅若太夫にも金子10枚を渡すこととなりました。

 もし癇癪をリセットすることができなかったら、おそらく、竹生島事件の時と同様の大惨事になったと思われます。(#㋐24のブログ参照。URLは下記参照)

    この事例は、「場面転換」によって信長の癇癪をしずめることができた事例です。(場面転換→「抑肝散服用 2ヶ月での変化」(マイペース自閉症アラジン子育て日記)にも記載。URLは下記参照)(R4.3.8、R5.4.25修正)

 

 

 

5 信長自ら膳を据える場面について(個人的見解、私見)

 上記1にて記載の通り、アスペルガーは、一般的に「アスペルガー症候群の人の発言は、深い意味はなく、言葉どおりの意味しか持たない。」「裏表がない。表と裏がなく腹黒い下心などを持たない。」という特性があります。よって、5月20日の高雲寺御殿で信長自身が家康一行に膳を据えたのは、信長が本当に心から家康一行を歓迎していたから、と理解した方がよいと考えます。(明智憲三郎氏の見解と異なっています。)

 なお、この場面については、後日、改めて取り上げたく思います。

 

 

 

 

【参考文献】

・『信長公記』(太田牛一著)(角川文庫)

・『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、榊山潤訳)(ちくま学芸文庫)

・『織田信長435年目の真実』(明智憲三郎氏著)(幻冬舎文庫)

(『織田信長435年目の真実』は、『織田信長433年目の真実』を文庫化にしたもの)

・ウイキペディア

・『織田信長』(池上裕子著)(人物業書)

・竹生島事件に関する私のブログ

 

 ※信長がアスペルガーであることを証明する内容にしています。

 

・「抑肝散服用 2ヶ月での変化」(マイペース自閉症アラジン子育て日記)

(マイペース自閉症アラジン子育て日記)

※場面転換についても記載されています。

 

※今回のブログで掲載している現代語訳は『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、榊山潤訳)(ちくま学芸文庫)の現代語訳。

※今回のブログ内容は、全ての発達障害者に当てはまるわけではありません。

※安土駅のツイートについては直接関係がないため削除しました(R4.3.18)

 

 

<参考2(R4.11.19等追記)>

 発達障害者の癇癪を収める方法として参考になるブログが新たに投稿されましたので、そのURLを添付します。

(マイペース自閉症アラジン子育て日記)(R4.11.19追記)

※発達障害児が極端な癇癪を起こし母親だけではしずめることができず、祖父が大激怒することで癇癪を起していた発達障害者がおとなしくなった旨記載されています。

 

 

(マイペース自閉症アラジン子育て日記)(R5.4.25追記)

 

 

※発達障害児が極端な癇癪を起こし母親に暴力行為を行っていたが、警察官が来た途端癇癪が一気にしずまった事例

 

 

 

<参考  Pick>

 

 

 

 

 

 

 


<参考 Pick2>

 

 

 

 

※今回の記載内容を覆す一次史料が出てきたり指摘されたりした場合は、確認の上必要な訂正を行う予定です。

※誤字脱字等があれば、その都度訂正します。

※引用箇所について転載等禁止

 

本日も最後までご覧いただきありがとうございました。