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『ロゴスドン』Webの連載「「裏日本」文化論」を更新しました。

 

第31回

〈秦氏の分布とルート〉


 浅香年木は、渡来系氏族・秦氏は、朝鮮半島から北陸へ渡り、近江を経て機内へ入ったと主張している(第30回〈秦氏について〉参照)。確かに、往々にして我々は「機内中心」に考えがち、つまり、まず機内へ入った秦氏が、次第に各地へ分散していったと思い込みがちである。しかし、地理的に考えるならば、浅香の述べるルートの方が自然ではないだろうか。 
 7世紀後半の朝鮮半島には戦乱の嵐が吹き荒れた。例えば、668年に高句麗は、唐・新羅の連合軍によって滅亡している。百済は660年に陥落している。そして、陸の逃げ場を失った人々の多くは、海へと向かった。つまりボートピープルとなり、海を渡ろうとしたのである。その結果、相当な数の亡命者(ボートピープル)が「裏日本」には流れ込んだはずである。 
 当然、上記の戦乱以前から、大陸・半島から「裏日本」への大量の移住はあったようだ。一説によると、紀元前3、4世紀から6世紀までの約1000年間に、少なくとも数十万、最大百五十万の人々が、朝鮮半島や中国大陸から日本へ流入したと言われている。

 

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http://www.nu-su.com/seimei.html

 

 

 

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第30回

〈秦氏とは〉


 前回(第29回〈翡翠〉)、秦の始皇帝の遺体は、翡翠で覆われていたということを述べた。始皇帝は、周知の通り、史上初の中国統一を成し遂げた(紀元前221年)人物である。始皇帝陵兵馬俑〔しこうていりょうへいばよう〕は、世界文化遺産にも登録されている。兵馬俑とは、兵士や騎馬をかたどった像である。それは、墓の副葬品そして殉死者の代わりとして作られたものである。武士俑が約8,000体、陶馬が約600体、戦車が約100体存在し、兵士たちの顔は全て異なっている。これほどの数の兵馬俑が、1974年に発見されるまで、約2,200年もの間、人目に触れることなく埋もれていたというのだから驚きだ。遺体を覆った翡翠や兵馬俑からは、いかに始皇帝の力が絶大だったかをうかがい知ることができる。

 

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