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ヌース出版のブログ

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『ロゴスドン』Webの連載「「裏日本」文化論」を更新しました。

 

第33回

〈青谷上寺地遺跡〉


 前回述べたとおり、鳥取県の青谷上寺地遺跡は、古代の絹織物に関する重要な事実を示している。また、その他の点においても、近年この遺跡からは大変興味深い発見がいくつかあったので、ここで紹介しておきたい。 
 例えばここからは、弥生時代後期後半(約1,800年前)の人骨が多く発見されており、その中の頭がい骨3点に奇跡的に脳の一部が残っていた。遺跡から古代人の脳が見つかる事例は珍しく、これらは日本最古の出土例だという。この脳の鑑定は、井上貴央・鳥取大学医学部教授(現在名誉教授、解剖学)が行なった。3点の内、2点は壮年の男性と女性で、脳全体の4分の1~5分の1が残っていると推定されている。他の一体の壮年男性分は残存量が少なく、細胞化していた。このうち、約5分の1が残っていた壮年男性の脳は、大脳の左右前頭葉の部分で、残存量は10センチ×8センチ×4.3センチ×5センチ大で重さは約230グラム。スポンジ状になっていたが、脂質は残っていた。壮年女性の脳は、10センチ×13センチ×5センチ大と4分の1が残り、重さ約300グラム。部位は不明。いずれも現代人の脳と比較して、形態学的な相違は認められないという。(「青谷上寺地遺跡で弥生人の脳出土」『山陰中央新報』2001年4月17日参照) 
 普通、腐敗してしまう脳が残存していたのは、気温の低い季節に死亡し、粘土質の土や水(湿地)の中に急速に埋没したため酸欠状態となったためではないかと考えられている。

 

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『ロゴスドン』Webの連載「漫画哲学」を更新しました。

 

第97回

『僕たちがやりました』

 この夏ドラマ化され、賛否両論だった作品だ。(原作・金城宗幸)はちゃめちゃな物語のようだが、生きているということの意味を見つめ直すきっかけになる漫画である。
 「そこそこ楽しけりゃ幸せ」が信念だった高校生トビオは、友人の伊佐美、マル、パイセン達と楽しく過ごしていた。しかし、他校の生徒からマルが暴行されたことに対する復讐を企てたことで人生は一転してしまう。相手の高校にちょっとした爆破でも起こしてやれと爆弾を仕掛けたところ、プロパンガスに引火して大爆発。死者も出る大事故になってしまったのだ。結果、パイセンだけが逮捕され、トビオ達は逃亡する。しかし、パイセンの父親・輪島が闇社会の権力者だったことで、金の力で事件はもみ消された。自由の身になったものの、罪悪感で、これまでと同じ気持ちでは暮らせない。自分は幸せなんか感じてはいけないんだと葛藤するトビオ。伊佐美やマルも、それぞれの生き方を模索する。そして「自首しよう」と決めた。ところが、またしても輪島によりその計画はつぶされてしまう。罪を償うことができないまま生活して行くことに悩むトビオ。

 

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『ロゴスドン』Webの連載「哲学カフェ」を更新しました。

 

宗教とは個人の幸福と人類繁栄のための必須基盤である

 山下公生(東京都目黒区)


 我が国において宗教を信じる自由は憲法で保障されており、権力が特定の宗教の強要をすることや迫害をすることを禁じている。そこで、宗教団体は茸の如く増え続け、何と20万以上の宗教団体が存立し、その信徒数は2億人を超えている。これは一人が複数の宗教を信じるという、あり得ない現実を示しており、一言でいえば疑似宗教大国といえる。よって、宗教といえば胡散臭いものであると敬遠されている。それは、宗教擬きしか知らないが故の必然的帰結であり、宗教は戦争の原因であるとか、現実から目を反らす麻薬であるなどと不可解な定義をし、本物の宗教の醍醐味を体験することなく、その代用品で陽炎の如き生涯を過ごす。外国では無宗教者は、人生に確固たる価値基準を持たない者と見なされ不信感を持たれている。 
 では本物の宗教とは何かと問えば、歴史の風雪に絶え生き抜いてきた伝統宗教こそ本物の証しといえる。代表的な伝統宗教の信者を世界人口の割合で示せば、全体の7割以上を占め、キリスト教33.4%、イスラム教22.2%、ヒンズー教13.5%、仏教5.7%で、無宗教といえる神仏を否定する無神論者は僅か2.2%に過ぎない。これらの代表的伝統宗教は、相対主義価値観に対峙する絶対主義価値観を保持し、その根拠的存在である神や仏との信仰生活を確立している。 
 人間は地球で食物連鎖の頂点に在るが、それに至り、またそれを支えているのは、科学技術や政治経済理論等の実利的学問に代表される学問総称の進歩とその応用成果の実践によるものである。だが、それは他の生物に対する戦略的効果を示すものであり、人類にとって学問は諸刃の剣であり、その活用如何により人類繁栄の礎となったり、人類の破滅を招く凶器となったりする。たとえば、原子力は、原子力発電に活用すればエネルギーを生み出し経済発展の礎となるが、兵器の原爆になれば人類滅亡の道具となる。つまり、学問そのものは、行使選択能力を備えておらず、その方向性を決断し舵を取るのは、思想や哲学である。しかし、ウィトゲンシュタインは言った。「哲学は語りうるものは明晰に語らなければならないが、語りえないものは沈黙しなければならない」と。この語りえないものとは、カントの言う二律背反に至る形而上の世界を指し、現代風に言えば、科学認識の領域を超えた世界であり、「死後の世界は存在するか否か」とか、「神・仏・霊は存在するか否か」などの命題を意味する。学問の実利成果の行使判断は、形而下の思考領域と形而上の悟りとの相互共有認識により決定され、形而上の世界を担当するのが宗教の役割である。たとえば医療の進歩に伴い、尊厳死や安楽死の是非の問題が発生するが、その最終判断は医療知識とは別のものであり、結論に至るには、医療知識をもとにした哲学と宗教との共有認識が不可欠となる。

 

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