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「ロゴスドン」Webの連載小説「甦った三島由紀夫」を更新しました。

 

第56回

中国人留学生C (その六)


 C 若い人たちはあまり言わないようですが、日本の年輩の人たちはよく「つまらないものですが・・・」とか「僭越ですが・・・」とか「甚だ勉強不足なんですが・・・」とかまず言ってから上等な品物を見せたり、すばらしい意見を出したりしますね。
M それは日本人の本性の基底にあるシャイな面、羞恥心によるものでしょう。
C 日本人の基底にある・・・ですか? ではどうして若い人たちはあまり言わないんでしょう。それに行動でも、人前でお化粧したり地べたに座り込んだり、公然とハレンチなことをするようになったのはどうしてでしょう。
M それは戦後-----この言い方も70年も経った今どうかと思うんだけど-----「言論の自由」なるものがはびこったせいでしょう。「言論の自由」が日本人の箍を外し、羞恥心をズタズタにしてしまったんだと思います。
C それじゃ「言論の自由」はいけないこととお考えなんですか。
M 少々違った観点からになりますが、私は「核兵器は男、世論は女」という考え方を強く持っていましてね。元来戦争というものは男の仕事、力と力との対決、さらにはより強力な武器の競争だったわけです。ところが核という究極の武器を作り、実際に広島と長崎で使ってしまってから、もはや核は使えない兵器となってしまった。使えない兵器は恫喝にしか用をなさない。そうなると言論が兵器に勝る武器となってくる。そして「言論」が「殺し合い」よりも絶対優位に立つには、被害者意識を主張することです。ちょうど女が男に騙されたと訴えるのと同じです。つまり言論においては「やられた」方が強いわけです。そうなるとみんな「やられ側」を演じるようになってくる。痛くなくても痛い痛いと叫び、自分が被害者であると主張するようになる。即ち弱い奴が強く思われる時代になったということです。・・・はっきり言って、私は弱さを売り物にする人間ほど嫌いなものはない。そういうのはみみっちい考え方です。
C いわゆる「言った者勝ち」ということですか。

 

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『ロゴスドン』Webの連載「「裏日本」文化論」を更新しました。

 

第43回

〈白山信仰③〉 


 柳田國男は、白山といわゆる被差別部落の関係について、以下のように指摘している。

 

  白山権現も古くは此類の特殊部落を養ひしかと思しく、其配札に仮託する者諸国を巡業し、白山相人と称する賎民各地に居住す。(柳田國男『柳田國男全集』第24巻「所謂特殊部落の種類」筑摩書房1999年pp.256-257)

 

  関東地方は穢多部落の氏神は例の浅草新谷町を始〔はじめ〕として多くは白山神社を祀れり。此点は頗る興味ある事実にして他の特殊部落にも此神を崇祀する例少なからず。…(中略)…奥州地方の「モリコ」又は「イタコ」と名づくる一種の巫女は口寄を為すに白山明神の名を唱へて祈る。(同上p.260)

 

 柳田は、白山信仰者は諸国を巡業し、各地に「白山相人〔そうにん〕」と称して居住したと述べている。「相人」とは、簡単に言うと、人相を見て占う者のことである。また、浅草新谷町などの関東地方における被差別部落では、氏神を祀る神社の多くは白山神社であったとも述べている。さらに、東北の「モリコ」や「イタコ」などの巫女は、口寄せを行う際に白山明神の名を唱えるという(宮本常一は、イタコが持っている「お大事」と呼ばれる筒の中に「白山姫命」と書かれた紙を見出していることは、第36回〈オシラサマと白山姫命〉でも述べた)。
 なぜ、関東における被差別部落の氏神神社が白山神社なのか。

 

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『ロゴスドン』Webの連載「哲学カフェ」を更新しました。

 

表象する媒介者

 平川己津子(英国・マンチェスター)


 心における表象、Mental Representation には大きく分け、二種類あるとされる。画像的イメージあるいはアイコンによる表象と言語あるいはシンボルによる表象が現代の認知科学あるいは分析哲学では広く論じられている。つまり表象における媒介は画像的なものと言語的なものとに分けられる。もっとも現代の分析哲学で論じられている表象論はデカルトに始まる近世哲学、そこから発展した経験論主義者による表象論が根本となっている。18世紀のイギリス経験主義者であるヒュームにおける表象論では、表象とは感覚によって経験された知覚が、イメージへと変化して心に表象されるとされた。いわば五感によってとりいれられた外界の印象から心の中における観念へと変化したイメージを表象として、画像的な表象を含む感覚的表象を論じている。心に現れる表象はすべて経験が媒介しているとする考えである。
 ところで、現代の分析哲学における表象論は、言語に依存した表象に関する議論が主流となっている。例えば認識科学者でもあるアメリカの哲学者、J.フォーダーは言語による表象論を70年代から論じており、彼は、思考における言語とは生得的に与えられているとする。この生得論は上に述べたイギリス経験論とは真っ向からの反論になるのだが、実はフォーダーはヒュームを彼の心的表象論の先行者としてヒュームによる『人性論』を解釈した図書も出版している。
 しかし反面、フォーダーはヒュームが論じる画像による表象論に対して反論も展開している。

 

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