「裏日本」文化論・40 | ヌース出版のブログ

ヌース出版のブログ

近刊・新刊・既刊情報等

『ロゴスドン』Webの連載「「裏日本」文化論」を更新しました。

 

第40回

〈女人禁制〉


 白山のみならず、日本には「女人禁制」を敷いていた聖山が非常に多い。前回(第39回〈山の女神〉)その理由について、山の女神は嫉妬深く、美しい女性が嫌いだからという事柄を中心に述べた。この民間伝承は、日本各地に古くから伝えられてきたものである。一方で、神道や仏教などにおいて、この「女人禁制」はどのように考えられていたのであろうか。
 神道では、流れる血液を極端なまでに嫌う傾向がある。流血は「穢れ」として最も忌み嫌われる事柄なのである。聖山のみならず、神道では、神聖とされてきた場所では大抵、生理中や産褥中の女性が入ることを固く禁じてきた。本来であれば、生傷を負い血を流している男性も、そこに入ることはできなかったのである。流血は、端的に「生命力」が弱体化した状態を表す。神道においては、生命力の源たる「気」が枯れた状態、つまり「ケガレ」は徹底して排除しなければならない。神道は「今ここに生きていること」を礼賛する、いわば「生」の宗教なのである。故に、この「気」をどんどん増やしていくことこそが望まれる。冬は生物の「気」は弱まるが、そんなときこそ生物は安全な場所に籠もり「気」を増やさなければならない。「気」が「増ゆ」季節、それが冬なのである。生理や出産による流血により「気」が枯れた状態に近くなると考えられていた女性は、このような「ケガレ」の観点から、聖なる山に入ることを禁じられてきたのである。
 日本における曹洞宗の開祖・道元(1200~1253年)は「日本国にひとつのわらひごとあり」と述べた。道元の言う「(日本を諸外国と比べたとき)笑われるような事柄」とは、仏教道場における「女人禁制」のことであった。平等を説くはずの仏教において、なぜこのような男女差別がまかり通るのか――道元はそこに大いなる疑問を感じたのであろう。

 

続きは下記へ

http://www.nu-su.com/seimei.html