跳び安座…8
昨夕、稀勢の里が日馬富士に破れた。破れて土俵から崩れ落ちる姿を見て、はた…と『能における間合い』の話が思い浮かんだ。
今場所に稀勢の里が優勝したら、あえてブログに書きたいと思っていたのだが、十三日目にして土が付き、しかも負傷。
巷で言われるように『右脇』の甘さは今場所も相変わらずで
、関脇正代との取り組みでは、全く右側半身が機能していないように見えた。実況アナウンス程には『今日も盤石でした』とは、私には思えない相撲が続いていた。立ち会いの不味さや右脇の締めが甘いのを、今場所は誰も指摘しないのが不思議だった。
相手が下位ならばこそ凌いでいたが、今日の相手は腐っても横綱日馬富士であって、気性の激しさや最強の武器である抜群の出足に衰えはなく相変わらず鋭い。
さて、少々強引に能楽のネタに持って行く。能の曲には、曲ごとに様々な主題と固有の間合いがあって『羽衣の間合い』や『高砂の間合い』がある。ゆえに、自分の間合いではなくて曲の間合いを考えて舞い、謡え!…と師匠に叱られた記憶がある。自分の間合いで舞う限り、本来の表現は掴めないし、『何をやっても無意味だ!』という事でもある。
同じように稀勢の里には、彼本人の間合いがある。だが、それだけでは十五日間を勝てない。必ずしも自分の間合いで試合が出来るとは限らないからだ。
そこで相手の間合いを想定して『同じ土俵』で勝つ…今日の取り組みで言えば、日馬富士の間合いを想定して、あの俊足の出足を止める必要があった。だが、元来から稀勢の里は総じて仕切り、間合いが上手くない。常に自分の好きな間合いで相撲に臨もうとするように見える。
ゆえに、日馬富士に一瞬の出足で右脇を突き破られ、防御姿勢すら失って土俵から転落した時、稀勢の里の脳裏には制御不能に陥った自らの肉体が見えていたに違いない。
受け身すら取れなかったのは不覚であったろう。
ならばこそ、むしろ稀勢の里に必要なものはメンタルトレーニングや精神的基軸よりも『初心に帰れ』で、間合いの再考も含めて基礎的に的確な身体の考察と訓練であるように思えた。
梅の散り際
久しぶりの更新。
ありふれた家事に追われて日々一日が終わる。
先日、ようやく暇が出来たので水戸弘道館を散策した。すでに梅の季節も散り際の風景だ。
カメラ機材も持ち込み、少しだけ遊びの撮影を楽しむ。思い込み・思い付きでスナップしたので、個人的な印象だけが先行する。そういう写真は人に見せる必要はないし、見せたところでお互いに気分が良くなる事は稀だ。
そこまで目の前にいる相手に言葉を求める必要もなければ、信頼する必要はない…。
そういう訳で、写真など極めて個の領域で楽しむのが健全なんだろうな。
梅と水戸と言えば偕楽園が有名だか、私は『水戸・弘道館』がお薦めだ。
ここは武家的な精神空間と季節が楽しめる。
鎌倉期の随筆『明月記』には、作者である定家が深夜の梅を描写した一文があるが、確かに梅は夜に薫る花だ。
そして私的な意見を言えば、加えて小雨が降る夜が良い。
小雨の湿度に梅花の薫りが混ざり込むような雰囲気が好ましい…。
ただ…それは決定的に写真の表現は難しそう。
文明の利器も、案外につまんねぇ。


