歴史は芝居ではない
文体について悩む時がある。
『お前は馬鹿だ。』
と、『貴方は馬鹿だと思います。』
では、前者の表現には相手に対して労りがあるが、後者は嘲りが含まれる』…と、とある写真ブログの方が述べていた。
文体は、書き手の性格と顔を決定し、また題材の解釈や表現を生かす道具なのだ。だから、話題によって文体を変化させる方もいるはずだ。
先日のブログ『ある批評家の死』の文体を多少書き換えてしまった。
私の少年時代、『モンティ・パイソン』は完成された風刺コントであったと思うが、解説者の『今野雄二』氏には反発を感じていた記憶がある。いや、ある意味で嫌悪感かも知れない。
ここで、少し話が変わる。
それは最近では、私が抱く劇作家平田オリザ氏に対しての文体的拒否感と同様であろう。
自らを高見において、他者を『拙い演技者』として批評が許されるのは、舞台上のリアリズムに限定されるはずだ。
だが、平田氏が歴史や社会を同様に批評するのは『傲慢な文体』であると思う。
歴史には人々の誕生があり死がある。
その積み重ねが時代なのだ。時代とは演劇の舞台ではない。
時に、人々を覆い尽くすテーゼというものは過酷に無情であり、非人間的な思想や行動を普遍化し、とうてい逃れる術もない。
例えば戦争による死は、演出であろうか。
広島、長崎に投下された原子爆弾は『つまらない書き割り』であったか。その惨禍に人々が焼かれた運命は、銃後の国民として平田氏の云う『戦前の人々は与えられた一つの役割だけを演じていればよかった』と言い捨てる、氏の態度は傲岸不遜というものだ。
私は『死の積み重ねが歴史の財産である』と思うが、果たして、平田氏は『死』をどう見えているだろう。



