HOODのブログ -442ページ目

韜晦と逡巡

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写メは私の大好物…鰻

振り返って見るとブログ更新回数が、月を追うごとに減ってきた。ついには2月は16回で終えた。
そこで、減らした理由を自問自答してみた。

まず第一に、私はわりと無神経なくらい他人へは無邪気にモノを言う。その姿勢で、意見をブログへ載せ替えてきたわけだ。ゆえに年相応の成人男性の分別とか、社会に世慣れた見識などは無縁なブログを目指してきたつもりだ。

ところが、昨年のある時期から、この無邪気な言動を少し慎んでみた(自主規制…)すると、急に私はブログが楽しくなくなった。

例えば、私は政治的スタンスはラジカルな保守派だと自分では思っているが、他人からは戦後自虐史観に縛られているかに見られたり、揶揄した指摘を受けたりした。しかし、私はその事柄について、生真面目に逐一反論つもりはない。

概して愛国者と国粋主義が同一に解釈されてしまう日本では、『右翼』=愛国者=国粋主義であり、そして戦後史否定論が正統な考察と結果と思われているフシさえある。
だが、この辺りについては多々の主張があって然るべきであると思う。
その辺りの表現を、一つの例として巡って考えてみると、人は互いに用いる言葉は共通の用法だが、言語表現の結果は自らの経験学に左右支配されており、決して共有される地平ではないようだ。

詰まるところ言葉の使い方は人によって異なるし、その差異は結論の導き方や論点も変えてゆくと見ている。
残念だが、言葉だけでは真意が通じない相手というものは、普通に考えているよりも身の回りには多いのだ。
しかし、その不都合さが『社会構成の維持努力』だと解釈している。
しかしながら、人の心まで扱う言葉というものは、時に常識、あるいは理論や哲学だけでは、生み出せない先鋭な姿を有する。ましてや『文藝』とは、人の心や人生に迫るものだ…と、ありきたりに使う言葉や文章も含めて、その力を信じたかったが…時代が、等価価値を言葉にも求めるようになり、また非効率な存在として除去される最初の生け贄が『文藝』であり、個々の言葉であるような、そういう空気が満ち潮に似た勢いで、身に迫ってきたように感じてならないのだ。

能楽写真展

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四谷ポートレートギャラリィなぅ。能楽写真展開催中!

能楽写真展

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能楽写真家協会
能楽写真展2011 東京展

『静と動の美』

2011年2月24日木~3月2日水
四谷ポートレートギャラリー

午前十時より午後六時。最終日は午後二時まで。

今回の能楽写真展は、一同に作品を見る良い機会だと思いますので、是非、お立ち寄り下されば幸いです。
私も、会場に土曜は午前中より、日曜は午後におります。

宜しくお願い申しあげます。