プチ旅行…三
一応、撮影屋になった私は常時にカメラを持ち歩いているけど、幼い頃の家にはカメラはなかった。
両親が写真で日常を残すことに興味がなかった事や、まだカメラが若い会社員には高価過ぎた事もある。だから、子供時代も含めて私を写した写真は極めて少ない。
で、親戚の叔父やカメラが趣味という近所の方に撮影してもらった写真だけが頼りでもあった。
一枚目。ちょうど、この電信柱の左側に私たちの家があった。今はアパートが立っている。道路、右側にも同じ家が立ち並んでいた。(つまり社宅である)
幼い私が犬のぬいぐるみを持ち、この道の中央に立って写っている写真が実家に残っている。
撮影は、近所のご主人で(父と同じ会社の上司で飯島さん・この右側に、当時は家があった)
ご主人の構えるカメラは蛇腹の付いたカメラであったと覚えているのだ。たぶん、私が『カメラ』を強く意識する始まりなのだと思う。
昼下がりで、ちょうど荷車を引く農耕馬車が来る時間だった。私は馬を見たくて待っていたんだと思う。
撮影後、まだ道をウロウロしていた私は、砂利道に滑って手前の側溝に抱いていた犬のぬいぐるみと一緒に落下する…。
今に思えば、あの馬車を待っていたのは私ばかりでなく、撮影者の飯島さんも同じであったかも知れない。消え行く風景として、荷馬車をし写真に残そうと考えていたのだろう。
プチ旅行…弐
駅前商店街を抜け、旧国道通り。戦前まで国道だった道。小学校時代には寂れていたけと、まだ当時は何となく名残があった。
一枚目の空き地。以前は種屋さんがあって、冬に『壷焼き芋』を売っていた。
買い物帰りに、母が買ってくれるんだけど、売り切れが多くて三回に一回くらししか買えなかった。
近所には、実は密かに好きだった『みゆきちゃん』のおうちが行く横道がある。ここで、彼女のお母さんと二人で暮らしていて、夕方からお母さんが飲食店をやっていた。当時、担任だった女の先生が『みゆきさんのお母さんが、家族のために働いている事、それは大変な苦労があるけど、立派なお仕事のひとつです…』と言った言葉が印象的。
後年、高校が同じになって再会したけど、凄い美人になっていて気後れして何も話せなかった。
二枚目…ずっと本を注文して配達してもらった書店の窓。この辺りに八百屋や魚屋、薬屋も並んでいた。
私の家は、ここから五分くらいか。
三枚目…遊んだ公園。当時は自転車に乗ったオジサンの紙芝居が来た。結構、人気のあった紙芝居屋だったけど、そのオジサンが脳溢血で倒れてしまい、紙芝居屋さんが変わってしまった。
何が理由だか、覚えてないけど私は公園に行かなくなった。
今は、ご覧のように草蒸して遊ぶ子供達もなく、子供会も手入れしていないようだ。紙芝居も来ない。
思い出した。ある日、遊んでいたブランコが私の頭に直撃して血まみれになって家に帰り、驚いた母は私を近くの外科病院まで背負って運んだ。おそらく、母が私を背負った最後だと記憶する。
母は私を運びつつ、背中の私が重いので『もう、誰が何と言おうと、私は車を買うぞ!』と思ったらしい。
今でも、その傷は僅かに残っている。







