2022年6月1日「佐々木朗希投手 完全試合」のボール展示を訪ねて「野球殿堂博物館」へ | ミラーレス一眼越しに、私が見た風景たち

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~たゆたうはロマンか、センチメンタルか、メルヘンか

昨年の横浜との対戦では、牧選手のソロホームラン一本だけに抑えた佐々木朗希投手。昨日の今年の対戦では、「新マシンガン打線」とも呼ばれる横浜打線が佐々木朗希投手に襲いかかりました。

160キロ前後の「超剛速球」でも、今のプロ野球選手は打ち返すわけですから、投手のレベルだけでなく、打者のレベルもひと昔前より向上していますね。

初の「交流戦」での優勝へ一歩近づいた横浜。その勢いが名投手の球さえもとらえた昨日の試合でした。

 

さて、昨年の「佐々木朗希投手」の想い出をまとめてまいりましたが、昨年の6月には「東京ドーム」内にある「野球殿堂博物館」を訪ね、最新の記念のボールから、古い年月を超えた思い出のものまで数々の展示に触れていました。

 

今日はその時の模様をまとめました。

 

まずは、館内に入って最初の展示がこちらです。

佐々木朗希投手の達成した「完全試合『関連資料』」から。

 

まずこちらは、「完全試合」達成の次の試合、このブログでも紹介させていただいた観戦した試合のボールが展示されていました。

 

前の試合の「完全」から続いてあの日も8回を完全と、合わせて「17イニング連続でノーヒット」という偉業のボールとして展示されていました。

観戦した試合のボールが、記念として展示されていたのは嬉しいことでした。

 

こちらは「完全試合使用球」です。

 

握りの跡もリアルに残っていて、もう生きている間に私が見られる最後の「完全試合」球かもしれませんね。いや、佐々木朗希投手がメジャーに行ってしまうなら、その前にもう一度はぜひ目指してほしい記録です。

 

公式記録員の方が記録している本物の「スコア」。ここに並んでいる「0」の部分がすべてこのように揃わないと、この偉業はないわけです。夢のような現実の記録です。

 

他の偉業についてもいくつかですが・・・。

まず昨年「殿堂入り」した三人。ヤクルト「高津監督」、元中日で50歳まで投げ続けた「山本昌投手」、そして東海大学元総長、首都大学野球連盟の創設や、旧ソ連や東欧諸国との民間外交への積極的な取り組みの中で、モスクワ大学に「松前記念スタジアム」を寄贈するなど野球の国際化に尽力した「松前重義氏」の三人に関する展示がありました。

 

中でも私に強い思い入れがあるのは、亜細亜大学出身の「選手」として初めての「野球殿堂入り」を果たした高津臣吾監督。

学生時代は小池秀郎投手と同学年で、両エースとして君臨していたのを見ていたのを昨日のことのように思い出します。

ゴジラこと「松井秀喜」選手にプロ入り第一号を献上したのも高津投手でした。

野村監督に「抑え」としての適性を見出され、名球会入りするほどの成績を残しただけでなく、海を渡り、アメリカ・韓国・台湾のリーグでも登板、さらには独立リーグでもプレーするなど活躍の場を求めて、あらゆる場所で投げぬいた姿は忘れられません。

今年は苦労を味わっていますが、指導者としても頂点を、その発する「言葉」によって選手を鼓舞させた手腕にも頭が下がります。

 

こちらは同じく亜大出身、ソフトバンク東浜投手の「ノーヒットノーラン」達成試合の使用球です。早くも飾られていました。

 

ここからは思い出のコーナーです。かつての「後楽園球場」のベンチ裏で「王選手」がいつもバッティングフォームを確認しながら素振りをしていた「鏡」です。

 

同じく後楽園球場にあった、王選手ホームラン記録世界新を達成したボールの着弾点の座席を外して、その場所にあった「モニュメント」です。

 

こちらは、毎年6月に開催されている「全日本大学野球選手権大会」決勝戦の記録です。

1984年、第33回大会決勝で亜細亜大学は法政大学との決勝に臨み、法政のエースで後に南海ホークスにドラフト1位で入団した西川投手の投球や、後にヤクルトに入団した秦選手ら後にプロ野球選手となったり、PL学園出身のスター選手揃いだったのに対し、亜大は「甲子園経験者0」だったことから、この年の新聞には「雑草軍団」とか「ブリキ軍団」との呼ばれ方がするようになった年でもありました。

亜大は現巨人の阿波野秀幸コーチが2年生ながら先発し、同点に何とか追いつき延長に入るも、当時3年生ながらエースで、後に社会人野球の「東芝」で活躍した「三原昇」投手が延長11回だったか、「サヨナラスリーラン」で力尽きたことは、今となっては懐かしい忘れられない思い出です。

 

また1990年の大会では、先ほども述べた亜大のエース小池秀郎投手の粘投で、辛くも東北福祉大学に競り勝ち優勝の座をつかみました。同級生には高津監督だけでなく、社会人の日産自動車を経て阪神入り、プロではノーヒットノーランも達成した「川尻哲郎投手」もいた時代でした。

この時の東北福祉大学も、前阪神の矢野輝弘監督や、元西武の大塚孝二氏、元阪神の金本知憲監督、さらには大魔神佐々木主浩までいたスター軍団であったと記憶しております。

 

亜大の話では熱くなってしまい申し訳ございません。

 

続いては「東京五輪2020大会」での野球の「決勝戦ウイニングボール」です。

野球は1984年のロス五輪で「公開競技」として、初めて採用。準決勝でそのアメリカを、決勝戦では「オリエントエクスプレス」と呼ばれ、後に西武ライオンズでも大活躍の「郭泰源投手」擁する「台湾」を決勝で破り、金メダルを獲得しましたが、以後金メダルはなく、競技自体も不採用の時代を経て、この東京大会で遂に念願の「正式競技」として「初」の「金メダル」となりました。

先の「WBC」の印象が、この時の記憶を上書きしてしまった感がありますが、松田宣浩選手山崎康晃投手が輝いたこの大会の記憶は、私の一生の宝物です。

 

先週、思わぬ訃報が同じ日に届きました。元広島の「北別府投手」と元中日の「杉下茂投手です」。

 

広島の黄金時代を築いた北別府投手。年齢も私と近く、闘病についてはこのアメブロでも書かれていたので、こ回復を願っていたのですが叶いませんでした。目をつぶれば蘇るあの投球フォーム。知っている私たちが忘れない限り、北別府投手は私たちの中で生き続けています。

 

そして、私たちには伝説の「杉下茂投手」。

90歳を超えられていても、精力的に沖縄キャンプまで足を運ばれ、中日のブルペンで、当時の与田監督や阿波野コーチらとともに若手の指導にあたられていたお姿。ついこの間のことです。

中日を初優勝に導いたのが1954年のこと。私も「野球観戦50年」などと書いていますが、私の生まれる前のことです。

 

このユニフォームは2リーグ制となった翌年、昭和26年に杉下氏がアメリカ3Aの「サンフランシスコ・シールズ」のキャンプに参加した時に着用していた貴重なものです。今頃、昔のお仲間と会えているのでしょうか。沢山の思い出をありがとうございました。

 

別の企画展示室には、1988年のあの「10.19」で近鉄の阿波野投手が着用していたユニフォームとグラブが。

「10.19」は書き出すと止まらなくなるので今日はこれ以上ふれるのはよしておきます。

 

最後にこちら。「ヤクルト」が初めて出た「日本シリーズ」のポスターです。これは懐かしかったです。

 

ところでヤクルトが出たシリーズなのに「神宮球場」が使用されていません。何故だかわかりますか?

これは神宮球場自体が、「六大学野球」が資金を出して作られた球場であり、それをスワローズが「借りる」という形から始まったことに由来します。今も使用の優先権は「学生」にあると思いますが、この年もこのシリーズの日程と週末に行われる「六大学野球」の日程が被ってしまうことから、ヤクルトが本拠地を離れ、「後楽園球場」を舞台にシリーズが行われています。

 

ちなみに「巨人V9」の翌年、中日とロッテによる日本シリーズとなった1974年も、ロッテが本拠地としていた当時の「仙台球場」が「定員」の問題だったか、照明の問題かで仙台開催ではなく「後楽園」を使用していて、10年連続で「後楽園」では日本シリーズが開催されました。

広島が初優勝した1975年は、阪急との対戦で久しぶりに「後楽園」で日本シリーズの無かった年となりましたが、翌1976年と1977年は長嶋巨人が優勝、そしてこの1978年はヤクルトと、また3年連続で「後楽園」が舞台となっています。

 

ついでに言うと、翌1979年と1980年は2年続けて、「広島」と「近鉄」による「日本シリーズ」となりましたが、「近鉄」のナイター用フランチャイズだった「日生球場」は、シリーズ開催のためには客席数が足りず、「藤井寺球場」には当時、住民の方々との合意に至っておらず「照明」がなかったことから、延長戦突入時の試合続行が難しいため開催ができず、「南海ホークス」の本拠地だった「大阪球場」を舞台に開催され、あの伝説となった「江夏の21球」も「大阪球場」がその舞台でした。

これらの関西の球場たちも、今はすべて無く、昨年秋の旅でそれぞれの「球跡」を懐かしく訪ねてまいりました。

 

また翌年の1981年はともに「後楽園」を本拠地とする「巨人」と「日本ハム」の対戦となったため、「日本シリーズ」史上唯一の「同球場」連続開催であり「一球場だけでの」開催となった年でもありました。

 

日本シリーズのことも語りだしたら全く止まらなくなってしまいました。このあたりにしておきたいと思います。

 

今年のプロ野球も、どんな想い出を私たちに残してくれるのでしょうか。それを求めて毎週、どこかの球場に出没する日々。元気で続けられるように、それを願うばかりですパー