秀吉の朝鮮出兵が招いたもの | パオンのブログ

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最初から続いている不思議な話です。
読まれていない方は、ブログのテーマ・「まとめ」から
読んで見て下さい。

先週、NHKの「歴史秘話ヒストリア」と言う番組を、寝に行こうとした時

に、チラッと見てしまったのです。あまりの面白さに引き込まれ、半分程

見てしまいました。流石に全部見ると、仕事に影響するので、仕方なく

途中で切り上げました。録画しようと思ったのですが、興味を引かれた

部分を見たので録画はしてなかったので、正確な内容で書けたか自信

がありません。



[内容]

秀吉が、朝鮮へ遠征する時の話から始まりました。

まず、出兵するにあたり、秀吉は、対馬を守る宗 義智(そう よしとし)

を呼び、「先陣を務めよ」と、命を下します。

朝鮮との交易で栄えていた対馬ですから、親交のある朝鮮へ攻め入る

のは、苦渋の選択でした。しかし、秀吉には逆らえませんでした。

秀吉の死後、朝鮮遠征は失敗に終わり、徳川家康の時代が来て、貿

易や外交を重視した家康は、対馬の宗家に、朝鮮との親交を、復活す

るように命じます。

しかし、朝鮮へのアプローチは、何度も拒絶されました。

それは、秀吉軍が、ソウルまで攻め入った時、朝鮮王室の墓・宣陵(そ

るるん)まで荒らした怒りにありました。

墓の棺も無くなっていて、争いで倒した朝鮮兵の耳や鼻を削いだ蛮行

に対するものでした。

朝鮮には、耳塚と呼ばれる場所が有りますが、その時の耳を埋めた塚

なのです。

徳川家康が、朝鮮遠征には、反対していた事から、朝鮮は、日本に3

つの要求を満たすなら国交を再開しようと言ってきました。

その要求は、


1:朝鮮王室の墓・宣陵を荒らした犯人を差し出す事。
2:謝罪文の国書を先に出す事。
3:捕虜を返還する事。

この要求に、対馬の宗義智は、困りました。

捕虜は、2万人近くにものぼり、技術者が多くいて、有田焼きは、その

時の陶工で発展しました。

この捕虜は大切に扱われていたので、返還は何とかなると考えまし

たが、問題は、残りの2つです。

この要求を家康の所にもって行けば、朝鮮出兵に関与しなかった家康

が謝罪するはずもなく、間違いなく家康は激怒すると考えたからです。

対馬藩は、国交を断ってから8年が経ち、財政が悪化していました。

そこで、宗義智は、思い切った行動に出たのです。

それは、偽の国書を書くと言うものです。

(1)の要求は、藩の罪人を墓荒らしの犯人に仕立て上げ、(2)は、偽の

謝罪文を書きました。

「日本国王 源家康」と署名し、偽の国印まで作成し、偽の国書を送り

ました。

もし、家康から先に謝罪した事が家康の耳に入れば、激怒どころで

はすまないでしょう。

それを決断した宗義智の心中は、如何ばかりのものだったのでしょ

う?

私は、ゾクゾクしました。

私が、この番組に引き込まれたのかが、分かってもらえますよね。

しかし、まだ、このゾクゾクは続くのです。


その後、朝鮮から返事の国書が、対馬藩に届きました。

それには、返事である「奉辺」と書かれていて、家康に見せれば、ばれ

てしまうと宗義智は思い、これも、偽装しようとしましたが、使節団は、

江戸へ行き、直に、家康に届ける事を要求してきました。

絶体絶命の宗義智は、江戸までの間に、すり替えようとしましたが、そ

のチャンスは無く、江戸まで来てしまいました。

謁見の前日、使節団の宿舎で、すり替えるチャンスがあり、無事、事無

きを得ました。

宗義智氏は、ハラハラドキドキなんてものではなかったでしょうね。

しかし、このハラハラドキドキは、もう一幕あったのです。

それは、宗義智の死後、代が変わって、対馬藩で、家老と、宗家との

内紛が起こりました。

家老側が、国書偽造を密告したのです。

すぐさま、三代将軍、家光の下へ、藩主・宗義成は呼び出されました。

この時、事の重大さから、宗義成は、藩は取り潰されると覚悟していた

はずです。

しかし、家光の下したものは、お咎めなしのものでした。

藩は、朝鮮との外交に欠かせないもので、ここで、許せば、益々、国益

のために働いてくれ、幕府に忠誠してくれると判断したからです。


と、ここまでが、私の見た番組の内容ですか゛、

これが、今までの私の不思議な話につながっていくのです。

秀吉の朝鮮遠征から、つながるなんて想像もしていませんでした。

それは、秀吉が、荒らした朝鮮王の墓の呪いかもしれません。

つづく