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ちょっと遅ればせながら、この7月に整備公開された葉佐池古墳を取材しました。しばらくブログ休んでいたので今頃になりました。


この古墳、6世紀後半ころの横穴式石室墳ですが、いろいろ埋葬にあたっての死者の取り扱いが解るところに価値があります。


伊予鉄道横河原線を平井駅で下車し、小野川沿いに20分ほど上流にさかのぼると、右手にトップに小屋のようなものが建つ、丘陵が現れます。この小屋の状ものが1号石室を覆う覆い屋です。



上部が墳丘で、このなかに5基の埋葬施設があります。そのうち1号と2号が調査され、1号墳が公開されています。この墳丘の形成過程は面白く、はじめ2・3・5号が一つの墳丘をもって築盛され、同時に右側に4号も築かれました。つまり、丘陵状上に二つの墳丘がありました。その後、4号を破壊し、そこに新たに1号を築き、最後に全部を覆う盛り土をコーティングして今の墳丘が完成しました。

この丘陵の裾にガイドハウスが設けられ、いろんな手法を使って、この古墳の面白さが説明されています。ただちょっと字が多いので、ゆっくり時間をかけねばなりませんね。


これなど、上記した墳丘築盛過程をモニターを見ながら追跡できるように工夫されたものです。

1号墳の面白さの一つは右端の遺体(白布でぐるぐるまきされたもの)に二種のハエの囲殻蛹が見つかったことで、そのことからモガリの存在が推定できたことです。


ハエには新鮮な遺体にたかるのと時間がたって腐肉にたかるのとがおり、ハエは石室内などの暗闇では行動しないので、この遺体は腐りはじまるまで石室外に置かれていたことが解ります。その期間こそモガリではないかと。
1号石室内の復元。3体あって、一番左が最初に埋葬されたが、次に片づけられて左奥すみにまとめられた遺体。真中が2号で正しく棺内に収められており、右端が最後に収められた遺体。これは一枚の板上におかれただけで、扱いにいろいろ格差があるんですね。


また墳丘上からの眺めや周辺の里の景観もいいですね。ゆっくり散歩するにむいています。


この墳丘の奥には須惠窯が点々とあり、この墓の主人公は焼き物やの長らしい。6世紀中ごろに始まり、7世紀中ごろにはここの須恵器が久米郡役所に供出されています。


ただ石室の公開は土、日、祝祭日に限られていて、平日の見学希望者は松山市教育委員会文化財課(089-948-6891)に事前に連絡くださいとのこと。葉佐池クラブという地元のボランティアが対応していて接遇もいいですよ。


一度是非見学を。お勧めします。

 過日、関西に所要があったのを幸いに、以前から是非にと思っていた京都市烏丸御池近くの江戸時代からのお宿、T屋に念願かなって宿泊した。


その部屋の作りは土壁、障子、板材など各職人さんが女将さんとあれこれ練り上げて古典的手法にて作り上げたものらしく、なんとも言えない居心地の良さに溢れていた。風呂も高野槇で、大昔の豪族は高野槇の棺桶に入ったが、やはり居心地がよかったのかななどいらんことを風呂のなかで考えた。


日本において鍛え抜かれた伝統的素材が、職人によって工夫が凝らされるとこんなにも人を落ち着かせ、しっとりさせ、安らかにさせるとは、体験してはじめて知ることができた。


かかわった職人さんたちは文化勲章とか重要文化財保持者とかには関係ないかもしれないが、そんなものはどうでもいい。われわれ庶民にそうして伝統技を気安く提供してくださるところに価値があり、貴重なのだ。常民文化財功労者ともいえるであろう。


ここで泊することは、伝統文化財のなかに身をおくことであり、それがいかに心地のよいものであることに理会できるところなのだ。


さらにこの部屋には伝統を邪魔する不可欠の近代ものはすべて隠して見えないようにしてある。たとえばテレビは子押入れのなか、空調機の全面には桟状のものがあり、温風のみがもれだす。外部にみえるのは空調の調節器(これも壁の足元にあった)とコンセントくらいで、コンセントもどこにあるのか探すのに苦労した。


つまりここでは、不要なものは何もつけない、不可欠でそぐわないものは工夫して隠し、この部屋の味わい、過ごしを邪魔するものは一切排除しているのである。


これって、文化財を保存し、それの価値を削ぐものは一切付け加えない、不要のものは排除するという文化財の取り扱いと対処を決めたイコモスの理念とピッタシ一致するではないか。

T屋は生きたイコモス理念の体現者なのだ。


この宿が平成9年にボヤを起こした時、たまたま泊まっていたあの渋い米国男優トミー・リー・ジョンズがボヤが収まったと聞き、一時避難先から「鎮火したなら、あの気持ちのいい部屋に戻りたい」と言ったという話を村松友覗さんが「俵屋と不思議」という書物で紹介していた。外国人の宿泊者が多いらしいが、いい文化財は世界を問わないということだろう。


いいしつらえ、それの活かし方、宿泊人への対応(ホスピタリティ)の三位一体となった見事さは、これは文化財の扱い方のあるべき姿を体現している。見本であり、先生である。


宿賃はちと高い(出張費では無理)が、文化財関係者は是非一度は泊まってみるべきです。お勧めします。ハード工事による整備が文化財の活用と思っている御仁には目が覚めるよ。



向こうに炬燵

シンプルは気持ちがよい。


能島城を対岸の大島側から遠望した。この間まで、樹木がもさもさ繁茂していて、ただの島にしか見えなかった。景観整備したところ、郭の人工的な平坦線や切岸がくっきり見え、城らしくなった。手前の平坦部が三の丸、その上部が本丸である。本丸左側はこれから整備するそうなので、いずれ切岸もすっきり見えるようになるでしょう。

 

 能島城(愛媛県今治市宮窪町)は能島村上氏の居城の一つで、ここ10年?の発掘によって、城の実態が解ってきた。発掘開始以前は隅から隅まで「軍事」的側面のみで捉えられてきたが、発掘してみると、軍事的防御性は弱く、海を足とする交易的対外活動が顕著であるようだ。

 


この写真は同方向からのアップであるが、アップにすると邪魔ものが目立つ。その第一が本丸の上に葉を落とした木々だが、これは桜である。この桜が本丸の地下にある遺構を壊していることが発掘によって判明しているのみならず、ただ島の時は桜で済んだが、城の上に林立すると中世の景観を完全に破壊している。そめい吉野なんて幕末か明治に開発された庭木で、中世に存在するわけもないだけでなく、海賊衆がもつワイルドで勇敢なイメージを否定している。


年間わずか一週間の地元の慰みのために、国民の財産であるこの歴史的記念物の価値を侵害損壊していいのだろうか。国史跡といった文化遺産はその価値を棄損する一切のものは付け加えず、不要なものは除去するというのが世界的標準ではないのか。


その意味では三の丸の上に立つ天井つきの建物も邪魔だねー。これ雨降ったときや日差しの強い時などに逃げ込んだりできる便宜施設だけど。便宜施設は必要だけど、ありようは再検討されるべきだろう。


もうひとつ。この能島城と対をなす村上水軍博物館によったら、妙な石板が新たに建てられていた。そのうち写真で紹介するが、和田竜人気に悪乗りした記念物だ。フィクションもノンフィクションも判らぬ首長どもの仕業らしい。本当に程度が低いんだから。この他にもこれに類した事例がこのごろ県内に蔓延っているよ。

 

 そのうち、文化財利用悪乗り集でも特集するかな。