阿波大島防備衛所
現在は「牟岐大島」と呼ばれてます。
少し大島の歴史を書いておきます。
牟岐港の東南東約7kmの洋上に浮かぶ、周囲約9.3kmの無人島です。
古くは天保2年(1645)より阿波藩主、蜂須賀 至鎮侯より青木家二代庄屋、七郎兵衛に大島において「キリシタン改め」の御番を命じられ、航行する船を停泊させ、キリシタンの取り調べを行なっていたそうです。
後の文化3年(1806)には遠見番所が頂上に設置され異国船を発見すると狼煙場より狼煙を上げて徳島城へと知らせてました。
それより200年後の弘化3年(1846)に隣の出羽島より3人が大島に移住。その後、移住者が増えて明治11年(1878)には20戸まで増えたそうです。ただ・・・島の生活は不便で病院や学校といった面で、明治20年頃より少しずつ島を離れる人があり明治30年(1897)には元の無人島となりました。
そんな場所にひっそりと残る遺構です。
大阪警備府隷属 紀伊防備隊 阿波大島特設見張所・・・
特設見張所。。。簡単には、海より侵攻してくる敵に対して目を光らせてた陣地。
紀伊防備隊は、阪神方面侵攻防御の為に設置された陣地です。
昭和19年10月頃より運用開始されたようです。
そろそろアップせねばwww
と言う訳で。。。
個人所有の無人島です。
許可を得て、ガイドさんの船にて渡りました。
施設及軍需品目録
雑品目録
施設等配置図・・・一部、字が解読できないモノがありますが、ほぼほぼ配置図通りの位置に隧道や建物跡が残ります。
当日の探索ルート・・・
では。
正面に見えるのが牟岐大島です。
牟岐大島の船着き場・・・
付近には桟橋跡と思われる石積が多く沈んでます。
湾の奥にも幾つか人工物がありますが、戦時の物かは不明。
綺麗なビーチもあったりします。
ガイドさんとルートの打ち合わせをして・・・
ほな・・・
出発~♪
軍道は比較的、綺麗に残ってます。。。。。途中まではねwww
石積に・・・
石畳・・・美しくも感じますね。
5分程歩くと左手に住居跡の平地がありますが、特に何もないのでスルー。
その辺りの右手斜面には石を切り出していた痕跡が残ります。
持ち出されず残された石が幾つか確認できましたよ。
そこよりノンビリと10分程でしょうか・・・
右手斜面に壕・・・3枚目の写真(見取り図)とは少しズレてる気がしますが①の隧道。
微かに壕口が確認できますね。斜面を少し上がった場所にあり、この壕はガイドさんも知らなかったと言ってました。
ライトを当ててカメラ突っ込んだんですが、イマイチ奥の確認ができません。
谷を挟んだ場所には色々と残ってましたね。
図中の「烹炊所」付近。
建物の基礎だけが残ります。
烹炊所に付き物のカマドの確認はできず。
烹炊所の奥ですが、図中の字が解読できません・・・桟???(^^;
分かりませんが、その付近。
基礎・・・2m×3m程。
中には小さな発電機を設置してたようなコンクリートが確認できます。
と・・・大きな水槽。。。朧気ですが、4m×6m程はあったように思うw
深さは・・・水が溜まってたので分かりませんが見えてる分でも2ⅿはあります。
これは生活用水用でしょう。
図中の「燃料倉庫」付近です。
大小色々な基礎や水槽が残ります。
と、最奥の「隧道②」
壕口は崩落してますが、入れない事はない。。。
奥行きは6m程・・・
足元は悪いですが、状態はいいですね。
まぁまぁの蟻地獄状態で出るのに苦労したのはヒミツ(;^_^A
軍道に戻り、大きな水槽より少し上には谷から水槽へと水を引き込んでいたと思われる水路跡が残ります。
谷を分岐させて水量調節してたような細工です。
仕切り板の場所を変える事で流れる方向を変えていた感じですね。
大きな水槽の近くには、海軍標柱・・・二十三
そこから少し軍道を上がると隧道・・・奥行きは3m程でしたね。
が・・・あるんですけど、図中に記載はありませんでした。
図中の矢印③位置・・・辺りだったと思う(^^;)
近くに横たわる海軍標柱・・・
二十一
因みに・・・ここ大島には「たちばな」と言う日本に自生する唯一のミカンの木が自生してます。3本あったかな。
丁度、実がなってたので食べてみましたが、酸味だけの甘味の無いミカンです。種持って帰って植えてみたけど・・・芽は出ませんでした(´;ω;`)
そんな感じで、その②に続きます~(^^♪
~おしまい~
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