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そーゆーわけで、
家から出ることになった私は
人生で初めて一人暮らしをすることになった
楽園である✨
ワタクシもともと趣味、
間取り見る😍な、人🙋♀️
間取りを見て
ここにどういう向きで
どんな家具を置いてと
いちいち思い、巡らせているのが
大好きだった💓
自分の部屋はあっても
いきなり親が入り込んでくる環境では
安心できる場所
でもなかった。
なんなら引越し前は
兄と2人部屋で
自分の居場所がなくて
兄の勉強優先され
扱いが不当だと
トイレか風呂場に鍵かけて
何回も閉じこもった
くらいだったから、
はじめての一人暮らし
人にあれこれ言われず
自分の好きにインテリアを組む
まさにパラダイス💫
めちゃくちゃ楽しかった。
そもそも、家から通える距離の
専門学校と短大に
行かなかったのは
大卒
(当時はまだまだ看護系大学が少なかった時代)
言う肩書きが欲しかったのもさながら
(看護師以外の資格も取れるし)
家から出たかったから
に他ならない
もともと
生きづらくて窮屈だった
家の中でも安心できず
どこか緊張していた
手がかかる兄弟2名に
親は手を取られ
手がかからないから、と
わりと放っておかれていた。
中間子の宿命である
が、
本当にそんな
手がかからないような幼児がいたら
むしろ、注意した方がいい
ということはあとでわかることになる。
私の場合は
んなわけはなく
気を利かせて
空気を読んでいただけで
めちゃくちゃガマンしていただけである。
自分は、必要とされていない
感覚が強かった
その後
両親が不仲になり
離婚問題が突発していて
家の中、ギスギス
小さい頃から感性豊かで
HSPだったり
エンパスだった私は
その雰囲気が、
しんどかった
好きなことや、その感覚は
家族には理解されず
それが苦しくて
出してはいけないことと
感じていった。
さらに、兄弟が
統合失調症を発症
意味不明の行動や叫びが
理解出来なくて怖かった😭
ますます家が
カオスになっていった
ちなみに、彼は
第一反抗期がない人だった
第二反抗期もそんなになかった
反抗期と言うのは
自己の主体を形成する時期なので
必要な時期に
しっかり発動してくれた方が
その時は大変だけど
後は落ち着くものである。
さて、
小学校から某有名私立で
お金持ちが多かった。
と言う環境で
学び舎だったので
シャツがはみんなラルフローレン
服はブランドもの
都内だけど、一軒家が多くて
長期休みが海外に行く人も続出だった
親も頑張ってくれていたが
何せ、子供。
自分が周りと同じように
振る舞えないことが、
自分がダメなんだと
みじめな気持ちを育てていった
そんな私を支えてくれたのは
音楽で
小学校5年生の時に
初めて紅白歌合戦に出場した
エックスの(今はX JAPAN)
紅を聞いて
「紅に染まったこの俺を
慰めるやつはもういない
もう二度と届かない。この想い
閉ざされた愛に向かい叫び続ける」
魂震えるほどしびれた
感性豊。なんだか
満たされてないのか、
よくわからん子供だった🤣🤣🤣
中学に入って
ビジュアル系にハマる
が、これをもとにいじめられる
お前なんかがビジュアル系好きなんて
くそだしねみたいな
赤い文字で書かれた手紙が届いたりした。
好きなことを出すと
つぶされる
そんな体験もここでした。
学校も楽しい所ではなく
家はめちゃくちゃ
そんな私の青春は
原宿の歩行者天国
通常ホコ天でライブをしていた
ビジュアル系バンドにハマる
ここが、とにかく楽しかった💓
服を黒くなり
帰りが遅くなり
親には怒られ
それを不良扱いされたけど
やっと自分の居場所が見つかった
そんな気持ちでいっぱいだった
黒服で追っかけをするというのは
私にとっては青春だったのである。
そんな青春も
高校に進学し
吹奏楽部が忙しくなって
元彼ストーカー問題などもおきながら
徐々に遠のく
んで、
前回のように
途中から進学することに
夢中でまっしぐらになったのであり、
大手を振って家から出られる
このタイミングを
逃すはずがなかった\(^o^)/
とは言え、
希望したからって
先立つものがなければ
通るわけがなく
その環境を用意してくれたのは
まぎれもない両親にあり
さらに家がめちゃくちゃだったので
避難も含めて
離れさせてくれた
と言う親の愛だったことは、
この時にはまだ露にも知らない
続く
3人兄弟で真ん中長女、
上下を兄と弟に挟まれて
リカちゃん人形よりも
姉妹と外で一緒に虫取りや
泥んこになって、遊びまわる方が
楽しかった女の子でした。
親の方針で
私だけ、小学校から私立へ
電車に乗って学校に行く生活で
毎年夏はスタンプラリー。
行きたい所には
自分で路線図を見て
駅を探してそこにいけばいい
自分で行動して
たどり着けば良い
そんなことががっしり
インプットされた小学校時代
夏は、
父の実家で、山の中で
森にカブトムシを取りに行って
母の実家で海で遊ぶ
3年生から、毎年冬は
新潟県黒姫で雪の学校
5年生の時は
長崎県平戸市で2キロの遠泳
6年のときには
船で本州1周、10日の旅と
都会のど真ん中にいながら
自然の環境にも恵まれて
そんなことが叩き込まれた
小学校生活でした。
兄は勉強が好きだったけど
私は大学まで
エスカレーターで行けたこともあって
焦ることなくたいして勉強せず
両親が共働きだったので
鍵っ子で
家に帰ったら、誰もいない部屋で
日が暮れるまで本を読む
そんな生活でした。
そんな私の人生の転機は8歳の冬
お友達の家にお泊まりに行って
次の日ディズニーランドに行く予定が
熱を出して頭が痛くなって
なくなく帰宅😭
次の日病院に行ったら
熱は38度を超えていて
頭だけでなく
お腹がどんどん痛くなった
急性盲腸炎ということで
その日のお昼には手術と
バタバタぶりで入院になりました。
はじめての手術は痛かった
手術当日にはトイレまで歩いた
死ぬほど痛かった
ベッドに戻れなくて唸ってたら
看護婦さんにひっくり返されて
マジで死ぬかと思った🤣🤣🤣
もともと我慢強くて
耐えるタイプだった
愚痴は言わずに飲み込んだ
だから、入院中も耐えた
痛くても
辛くても
悲しくても
寂しくても
耐えて耐えて耐えた
そんなある日
人生の転機がいきなりきた
その日、担当になった看護婦さんが
一緒に遊んでくれた
塗り絵をしたり
おしゃべりしたり
きっとたわいもないことだった
だけれども
辛くて、悲しくて痛くて
でも、それを言わずに
誰にも言わずに
飲み込んでいた私は
声にも出さないのに
その気持ちを察して
寄り添ってもらえたように
感じて
はじめて本当の気持ちを
人が向き合ってくれたと感じて
涙が止まらなかった。
無事に退院したけれど
病院に帰りたいと言って
毎日泣き続けた。
声泣き叫びをすくって寄り添ってくれた
Oさんと言う看護婦さんが
本当にありがたくて
してもらった嬉しさを
同じように
人に返せる人間になりたい
と、
私は看護師さんになることを決めた
8歳、小学校2年生の冬だった☃️
その後
大学までエスカレーターで行けたこともあり
親と進路についてもめた
母はやりたいことがあるなら
大学を卒業してから行け!と言ったが、
あいにく、総合大学だったけど、
医療系の学部がなかった。
大好きな化学の先生に相談したら
4年間違うことやると
数学とか忘れちゃうから
そのまま受験したほうが
いいんじゃないと言われた
結局、そのバトルは
母が何を言っても
自分の意思を貫いた
やりたくないことのために
4年間も無駄にしたくないと言った
そして、最後は
やりたいことがあるなら、応援すると
言ってくれた父の一声で
看護学校への進学が決まる
10年間続けた甲斐があった🤣
中学から高校まで
吹奏楽部でサックスを吹いていた
それはそれで
とても充実した日々だったけれど
高校2年から大学受験に専念し始めた。
女の子はエスカレーターで、
進学させたいと
親の目論見は
木っ端微塵に打ち砕かれたけれど
私はやりたいことが叶うから幸せだったし、
苦手な勉強は
10年間抱き続けた夢が叶うために、
めちゃくちゃ頑張れた。
1年で
化学の偏差値38 → 65
英語の偏差値40 → 60
人間はやりたいことの為なら
頑張れる生き物である
数学は、めちゃくちゃのびはしなかったから
化学で受けられる学校を選んだ。
天上天下唯我独尊
この世で私くらい
看護師に向いてる人間も
看護師として、
人に向き合える人間もいないと
豪語していたのは、多分
8歳のときの入院が
Oさんとの関わりが
それだけインパクトが大きかった
からなんだろう。
結果、私は
看護専門学校、1つ
看護短大1つ
医療系大学の看護学科に1つ合格して
めでたく桜が咲いた🌸
栃木県にある医療系大学へ進学が決まる
夢は願い続ければ
言い続ければ
そして、
行動すればかなうもの
現実創造の基本を
8歳から実際にやり遂げた、私は
こうして夢を叶え
看護学生となったのである
が、夢だけ見ていた子供は
現実を知ることになる
次号!