高関建&シティ・フィル 本当は怖いニールセン6番 | 今夜、ホールの片隅で

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東京在住クラシックファンのコンサート備忘録です。

■東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第315回定期演奏会(5/9東京オペラシティコンサートホール)


[指揮]高関 建

[ピアノ]清水和音*


ムソルグスキー/交響詩「はげ山の一夜」(原典版)

ニールセン/交響曲第6番「素朴な交響曲」

ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第3番 ニ短調*

(アンコール)ショパン/ノクターン第10番 変イ長調*


常任指揮者の任期を延長した高関&シティ・フィルの4年目のシーズンが開幕。プログラムがユニークで、まずは原典版「はげ山の一夜」。最近では原典版の演奏機会も増えているようで、一昨年のパーヴォ&N響による演奏が記憶に新しい。のっけから、この曲にイメージするテンポよりもかなり遅く、図体の大きな怪物がのそのそと歩いているような出だし。リムスキー=コルサコフ版よりも無骨なオーケストレーションに加え、たっぷりしたテンポで拡大された時間の流れによって、交響詩としてのフォルムはほとんど解体され、長大な劇付随音楽の一場面を耳にしているような感覚に囚われる。


続くニールセンの交響曲第6番が当夜のお目当て。2015年の生誕150年の時に、ニールセンの交響曲を初めてひと通り録音で聴いてみて、この第6番の斬新さに衝撃を受けた。交響曲史上に残る奇作とも言うべきこの曲の、あまり多いとは思えない実演の機会があればぜひ聴いてみたいと思っていたところに、今回のプログラムである。これは聴き逃す訳にはいかない。


この曲、「素朴な交響曲」というニックネームとは裏腹に、本当は怖い音楽に思えてならない。冒頭から宿命的に鳴り続けるグロッケンシュピールの音は、見えない危機を探知するガイガーカウンターのアラート音のようで、この音が第1楽章の終盤で(第5番第1楽章のスネアのリズム同様に)回帰する場面は極めて戦慄的だし、第4楽章の終盤で金管が能天気なファンファーレを吹かすくだり以降の奇妙な明るさは、明るければ明るいほど額面通りに受け取ってはいけないような空恐ろしさが付きまとう。それが、この曲に対する個人的な印象である。


で、実際に聴いてみると、高関&シティ・フィルの演奏は精妙で透明感があって、アンサンブルの室内楽的な側面が活かされている。交響曲というよりは一種のオケコンであり、オーケストラの実力を測る技能検定に立ち会っているような気もする。いずれにせよこの曲の各パート、とりわけ(ショスタコのチャカポコを先取りするような)打楽器セクションに施された緻密な音響効果は、録音では十二分には味わえないだろう。まさにこのホールで耳を傾けるに相応しいデリケートな音楽であり、良質な演奏と共に、チャレンジングな選曲にも拍手を送りたい。


休憩を挟んで、後半にコンチェルト。確かにこの日のプログラムではこの曲順の方が座りが良い。清水和音さんのピアノは久しぶりに聴くが(このブログでは初登場?)、音の質感がマットで、グリップの効いた明瞭なタッチ。無駄な動きがほとんどなく、必要最小限のアクションで演奏する姿は、先週聴いたばかりのルイス・フェルナンド・ペレスの身振りの饒舌さとは極めて対照的で、演奏中に必要とする空間が驚くほどコンパクトである。それに、ひとつひとつの音の響きが「動的」ではなく「静的」に感じられ、聴いているうちに気持ちがしんと落ち着いてくる不思議なピアノ。この曲でこんな風に感じたのは初めてだ。


むしろサポートする高関&シティ・フィルの方がエスプレッシーヴォ。特に弦楽合奏の表情が濃く、中低音が存在感を主張する立体的なアンサンブルでありながら、決して響きが粘っこくも重苦しくもならないのが特徴だろうか。この曲は昔からどうも苦手で、くど過ぎたり長過ぎたり、今どこにいるのか分からなくなったりしがちなのだが、この日の演奏はソロ・オケ共に胃にもたれない、非常にすっきりと見通し、聴き通すことができた好演だった。


アンコールもまた、清水さんの抜群の安定感が光った。「安定感」という言葉は、必ずしもほめ言葉とは限らないけれど、このピアノの最大の美質はやはりそうとしか言いようがない。淡々としているのとも、クールなのともちょっと違う、このブレの無さが美しい。