人として最低限のhave toを命がけで守れない人に、
want toで動く資格はない。
体育会という世界では、人として最低限のhave toというものを大いに叩き込んでもらうことができた。まだまだ至らぬ部分は多々あるが…
4月からは右も左も分からぬ状態で社会人としてのスタートを切るが、まず当たり前のことをきちんと当たり前にできる人間になれるよう、日々を生きていきたい。
人として最低限のhave toを命がけで守れない人に、
want toで動く資格はない。
体育会という世界では、人として最低限のhave toというものを大いに叩き込んでもらうことができた。まだまだ至らぬ部分は多々あるが…
4月からは右も左も分からぬ状態で社会人としてのスタートを切るが、まず当たり前のことをきちんと当たり前にできる人間になれるよう、日々を生きていきたい。
バガボンド最新刊の巻末に、書いてあった言葉。
「作品をつくるのに何が必要だろうか
…
心のうち側の静けさ
今それを大切に思っています」
とあった。これは、『ソース』に書いてあった「本当に自分がワクワクすることをしている時には、心には静けさがあるものだ」というような記述と、おそらく通じているのだろう。
この「内なる静けさ」とは一体どのような感情だろうか。
心に“愛”がある時の感情であるように、思えてならないのだ。
昨日、マザーテレサの密着映画を見たが、彼女が「飢えた人」に対して愛を実践していた時は、心は内なる静けさで満たされていたに違いない。…と、直感的に思ったのだ。
内なる静けさとは、マザーテレサが言っていた「イエス(つまりは神)と共にあること」であり、愛、ということになるのではないだろうか。
「天職とは仕事ではなくて――イエスと共にあることです」
と、彼女は言っている。そして「誰でもできますよ」と。
さらに、柳生の書物に「平常心是道」という言葉がある。おそらく、この「平常心」とは、普段ぼーっと生活している時のような心というよりは、「内なる静けさ」に満たされた心のことを指しているのではあるまいか…。
つまりは、この先仕事をする時も、遊んでいる時も、飯を食ってる時も、いつも心の中に「内なる静けさ」を抱いていきたい…
そう思うのであった。
うれしいとき、いらいらするとき、たのしいとき、かなしいとき、
原風景には、いつでも帰れる。