原稿はそこで終わっていた。私は原稿を机に置くと、椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げた。
「……何だろう、これ?」
話だけを追うと作り物であることは間違いない。自殺しようとして、気付いたら奇妙な牢獄にいた。そこには人とは思えない姿の化け物がいて、人面が浮き出たブロックを延々移動させ続けるという意味のない重労働を強制された。鞭打ちや地獄風呂に痛めつけられた。労働が終われば人生を突き付けられる夢を見せられた。そんな苦境に耐えかねて牢獄から逃げ出したら、生き返って(そもそも本当に死んだのか?)自室のバスルームにいた。生き返ったら手首の傷は何故か塞がっていた。あまりにも荒唐無稽が過ぎる。しかし、何故か読んでいる途中から、この物語は母が体験した実話ではないだろうかという考えが芽生え、頭から離れなかった。
思い当たる節がいくつかある。まず語り手である「私」の名前。「本城由美子」とは母の出生名だ。完全なフィクションであれば、わざわざ自らの出生名を主人公に与えるだろうか。更に、度々目にしていた母の左手首に走る生々しい傷痕。幼い頃からずっと気になっていた。母に訊ねたことがあるが、「何でもない」と言われてそれきりになっていた。その後も何度か訊ねてみたが、いつも有耶無耶にされ、真相は分からないままだった(私に傷のことを訊ねられる母は、いつも決まってとても辛そうな顔をするのだった)。自殺未遂を経験したことは事実だろう。それに、私は母方の祖父母に会ったことがない。盆や正月には毎年父の実家を訪れるが、母の実家には一度だって行ったことがない。それだけではない。私が小さい頃から、母は度々夢に魘されている。夜中、トイレに行こうとして父と母の寝室の前を通ると、よく母の寝言が聞こえてくる。ドア越しのため何を言っているのかは聞き取れなかったが、声色が悲痛に満ちているのがはっきりと分かった。そして父の慌てたような声も。あれは牢獄の夢を見ていたのだろうか。
そう言えば、中学生の頃、母の異常な姿を見たことがあった。ある日、真夜中に喉が渇き、水を飲もうと部屋から出ると、廊下に母のすすり泣く声が微かに響いていた。声は仕事部屋から聞こえてきていた。母は夜遅くまで執筆し、そのまま机で居眠りしてしまうことがよくあった。またかと思い、起そうと仕事部屋へ行き、ドアを開けた。やはり、机に突っ伏したまま眠っていた。溜息を吐き、起そうとしたとき、
「もう……やめて……」
涙を流しながら、母が呻いた。苦しそうに震えていた。
「脳が……左半分……なくなっちゃった……。私の脳……床に……拾わなきゃ……。血で……左目が……痛い……」
何を言っている? どんな夢を見ているのだろう?
「ちょっと、お母さん。お母さん! 起きて!」
「うう……。持ち上がらない……。また叩かれ……。痛……傷が痛いの……。運ばなきゃ……。苦しい……息……苦しい……。手、なくなって……」
喉がぜいぜいと潰れたような音を立て、まともに言葉が出ていない。寝言とはいえ、ただならぬ雰囲気を感じ取った私は大声を上げながら必死に母の身体を揺さぶった。
「お母さん! 起きてってば!」
「いつまで続くの……こんなの……。お願い……もう許し……。夢……見たくない……。運ばなきゃ……運ばなきゃ……。痛いよ……私が……悪いの……? 私は……悪くない……。熱いよ……あああああ溶けてく……熱い……」
「お母さん!」
気付けば耳元で叫んでいた。母ははっとして目を覚まし、私を見た。涙に濡れた目には、恐怖の色が溢れていた。
「葵……?」
怯えに濡れた目。まだ震えたままだ。不規則に荒く呼吸し、額からは冷や汗が吹き出ている。
「顔真っ青だよ。大丈夫? どうしたの?」
「ああ、大丈夫、よ……。ちょっと、嫌な、夢見て……。それより、葵、まだ、起きてたの……」
息が乱れ、発せられる言葉は途切れ途切れだ。慌てて涙を服の袖で拭い、無理に笑顔を作ろうとする。目の下に涙の跡がくっきりと残っており、目が赤い。
「それより、じゃないでしょ。私は水飲みに起きただけ。そしたらお母さんの寝言が聞こえたの。こんなところで寝てないで、寝るならちゃんとベッドで寝なきゃ」
「そ、そうね。ありがとう。葵も早く寝なさい」
徐々に落ち着きを取り戻し始めたようだ。呼吸が段々とゆっくりになってきた。
「ねえ、何の夢見てたの?」
「さあ。起きたら忘れちゃった。早く寝なさい。明日も学校でしょ?」
「どうして隠すの?」
「隠してないわ。何でもないわよ」
「でも」
「本当に何でもないから。お願いだから、もう何も訊かないで」
そう言う母の表情は、根治する見込みのない難病を宣告された病人のように苦渋に満ちており、ひどく悲しそうだった。そんな顔で言われてしまえば、これ以上何も訊けない。母におやすみを言うと、悶々としたまま私はベッドに戻った。夢の内容を何故か頑なに隠す母が解せなかった。たかだか夢なのに、何故隠す必要があるのだろう? 釈然としないまま、明け方まで眠れずにベッドに横たわっていた。あのとき、牢獄の夢を見ていたのだろうか。もしそうなら、こんな暴力的で血生臭い夢を十三、四歳の娘に言えずに隠すのも頷ける。父は何か知っているのだろうか。
職場の状況に深刻になるあまり、すっかり頭の隅に追いやられていた記憶が思い出され、私の思考の最前面に立っていた。
玄関から開錠の音が聞こえた。
「ただいま」
母の明るい声が廊下に響く。はっとして顔を上げた。何故か私は狼狽した。今までも何度か母の仕事部屋に勝手に忍び込んだが、怒られたことは一度もなかった。だが、この日だけは落ち着かない気分だった。
「葵、ケーキ買って来たわよ。あれ、葵? いないの? まさか、また職場から呼び出されたんじゃないわよね……」
階段を上ってくる足音が響いた。私が原稿を持ち、部屋から出ようと椅子から立ち上がったとき、仕事部屋のドアが開いて母の顔が現れた。
「なんだ、いるんじゃない。いるなら返事してよ。また突然呼び出されたのかと思って不安になっちゃったじゃない」
安堵して笑顔になる母。
「ああ、ごめん。大丈夫だよ。お帰りなさい」
「ただいま。こんなところで何してるの?」
どう答えたものかと思案していると、母の視線が私の手元の原稿に注がれた。
「それ、読んだの?」
「うん」
「珍しいわね。葵が私の書いたもの読むなんて」
「お母さん、この話って実話?」
「分かったの? そうよ。全部ね」
目を丸くする母。やはりそうだったのか。
「信じられない話よね。でも、事実なの。夢なのか現実なのか、今でもよく分からないんだけど、それでも、あのとき体験したこと全部、私の記憶にはしっかりと刻み込まれてる」
母は静かにそう言うと、荷物を机の上に置いた。
「ねえ、葵。お茶でも飲みながら、ちょっと話さない? どうしても、あなたとゆっくり話しがしたいの」
「うん。私もお母さんと話したい」
「よかった。じゃあ、お茶淹れるわね」