十分後、私と母はキッチンのテーブルに向かい合って座っていた。私の好きなチーズケーキとアールグレイがテーブルに置かれていた。駅前の有名な高級洋菓子店のケーキだ。
「お父さんには内緒ね」
母が優しく微笑む。私は頷くと、ケーキの先をフォークで小さくカットし、口に入れた。仄かな酸味と優しい甘みが口に広がる。食べ物をこれほど美味しいと感じたのは随分久しぶりのような気がする。穏やかに微笑みながら私を見詰めていた母が、ゆっくりと口を開いた。
「あなたが今の会社から内定を貰った頃だったかしら。そのときから、頻繁にあの牢獄の夢を見るようになってね。昔から、時々は見てたんだけど、急に見る回数が増えたのよ」
中学生だった頃の一夜が再び思い出された。眠りながら涙を流す母が、直視するに堪えないほど痛ましかった。更に母は続けた。
「どうしてこんなにあの夢を見るのか分からなかった。でも、このことは何かを私に伝えようとしてる。そう思えてならなかったわ。それでね、ある日、暇なときに原稿用紙をぼうっと見てたら、突然手が動き出してね。あの体験を書き起こしていたの。変な感じだったわ。手を動かしてるのは私なのに、自分で書いてる感覚がないのよ。まるで、何かが私に乗り移って書いてるみたいだった。頭に人生の記憶が映像になって蘇って、それが一瞬のうちに文章になるの。何も考えてないのに。次から次へと文章が原稿用紙に吹き込まれていった。それからは空き時間の度に書いた。そして、完成したのが二週間前。出版社に持ち込むかどうか、凄く迷ってたの。この二週間どうして出版を迷ってたのかずっと分からなかったんだけど、その理由が今日やっと分かったわ」
母は一旦言葉を切ると、紅茶を一口飲んだ。
「あなたが最初に読むことになっていたからなのね。他の誰よりも先に」
「どうして?」
「あなたが今一番、あの原稿を必要としていたからよ」
おかしなことを言うと思ったが、同時に正しいことを言っているとも思った。
「書いてある通りだけど、あの牢獄で私は一生分の苦しみを味わい尽くしたわ。大袈裟でなく、そう思うの」
母は紅茶をもう一口飲み、また静かに口を開いた。
「あの地獄から抜け出して、気付いたことがあるの」
「気付いたことって?」
「あなたももう二十年以上生きているからよく分かってると思うけど、生きていたらいろんな苦しみに出逢うわよね。中には、嫌だけど理不尽に感じることも多くある。人生で起こることにはすべて意味があるってよく言われてるけど、理不尽な苦しみは少し違っていてね。確かに起こることには意味があるけど、その中身は実は空っぽなのよ」
「どういうこと?」
母の言うことが飲み込めず、フォークを持つ手が止まった。
「理不尽な苦しみが延々と降りかかってきているときはね、進む道を間違えているときなのよ。苦しみはそれを教えてくれているの。『ここはあなたが居続けるべきところではないし、今していることはあなたがやり続けるべきことではないから、早く逃げなさい』ってね。決して『これに耐えて強くなれ』と言っているのではないわ。だから、その苦しみに闇雲に耐え続けても、何も得られないの。そこから逃がしたいだけで、苦しみの中身は何だっていいんだもの。空っぽっていうのはそういうこと。耐え続けなきゃと思えば思うほど、その苦しみはただ大きくなっていくだけなのよ」
そんなこと今まで言われたことがなかった。
「毎日押し潰されそうなほど苦しくて、死にたいと思ってしまうくらい心が磨り減っているのなら、もう耐えなくていい。いいえ、耐えては駄目よ。その苦しみはあなたを今いるところから逃がしたいだけなんだもの。逃げようとしなければ、苦しみはどんどん大きくなって、何が何でもあなたを逃がそうとするの。悪循環にはまってしまうわ」
何か温かいものがキッチン全体を満たしていった。それはとても優しく、またどこか悲しくもあった。私は母の言うことが信じられずに、裏返った声で訊いた。
「それ本当なの? 本当に我慢しなくていいの? そんなの嘘でしょ? 私に仕事を辞めて欲しくて嘘吐いてるんでしょ?」
「じゃあ訊くけど、何で我慢しなくちゃいけないと思うの?」
「だって、どんなに辛いことがあっても三年は我慢しないと何も身に付かないって、辛いことに耐える経験を積んで忍耐力を養わないと、何処に行ってもすぐ逃げ出すようになるって、社長に言われて……」
「あなたは、それは正しいと思う?」
「分からないけど、正しいような気がする」
「そうよね。社会に出たばっかりだから、何を信じていいか分からないのは当然よね。それで、上の人間の言うことを、何となくでも正しいこととして受け入れてしまうのもよく分かる」
母はマグカップに手を伸ばし、紅茶をもう一口啜った。
「でもね、葵、その社長が言うことは半分しか当たっていないわ。確かに、仕事の厳しさに耐えることは必要だと思う。お金を頂いている以上、人に価値を提供しないといけないわよね。だから、仕事の水準を高く保つための厳しさは当然必要よ。厳しさに耐えることは結構苦しいけど、そのお陰で忍耐力や社会人としての自覚が養われたり、より大きな力を出せたりする。でも、今のあなたの場合はどう? 仕事のための厳しさだと言える? ただ働きさせられて、人格を否定することを毎日のように言われて、挙句にお金を盗んだ濡れ衣まで着せられて……。ただの暴力だわ。あの牢獄の鞭打ちと同じよ。そんな酷すぎることに耐えて、一体何が養われるっていうの? ただ命が削られて、ぼろぼろになっていくだけよ。実際、就職してからあなたはすっかり元気を失くしてるじゃない」
痛みさえ感じそうなほど救われる言葉だ。だが、まだ納得できない。
「その牢獄の拷問と仕事の苦しさがどうして同じだと言えるの? 全然違うじゃない」
「違わないわよ。確かに痛みや悪意には差があるわ。でも中身がないという点ではまったく同じ。私の場合、進むべき道を大きく逸れすぎただけなんだと思う。生きることに背くのは究極の過ちの一つだからね。その分苦しみが大きくなっただけ」
母はどこまでも穏やかで優しかった。
「苦しみの大小なんて結局その差でしかないのよ。どのくらい本来の目的から逸れているのかを教えてるだけ。もっと苦しいことに耐えなきゃなんて思わなくていいの」
鼻の奥が熱くなり、母の顔が霞んだ。
「厳しさっていうのはね、仕事の質を向上させるためとか、人の能力を引き出すためにあるのよ。人を痛めつけて委縮させる暴力とはまったく別のものなの。暴力にただ耐えても何も得られないわ。成長なんてできない。暴力は人からいろんなものを奪っていくけど、耐え忍んでいる間は何一つ与えてはくれないのよ」
私は間違えていたのか。私を成長させると思っていたものは、私の養分にはならないものだったのか。
「これ以上無意味に傷付くあなたを見ていたくない。あなたは頑張り屋だから、そんな理不尽な環境でも耐えることを選んでしまう。自分で自分を苦しめてしまっているわ。お願いだから、もう無理をするのはやめて。耐える必要のないことに無闇に耐え続けるのはやめて。あなた自身も、心ではそれを望んでいるはずよ」
涙が大量に溢れてきた。仕事の行き帰りに電車で流したものとは違い、熱い涙だった。打ちのめされ麻痺した感情ではなく、本心から発せられエネルギーに満ちた感情が流させた涙だった。あの牢獄から戻ってきた母も、きっとこんな涙を流したのだろう。母がテーブルの向こうから手を伸ばし、私の手を優しく握った。熱い雫が二人の手に落ちた。
「もう苦しみを味わい尽くしたでしょう? 手放しなさい。空っぽな苦しみは、味わい尽くして手放した後に、初めてその意味を帯びるのよ。手放さない限り意味はずっと見えないまま。でも、離れて意味が分かったとき、あなたは一歩成長できるから。手放すことを怖れないで」
母の言葉ひとつひとつが私の心に染み込んできた。職場で受けてきた固く食い込む鋭利な言葉とは違い、心を優しく包み込むようにゆっくりと浸透する言葉だった。冷え切った心に沁みるその温かさがこれまで抑圧されてきたものを溶かし、外へ押し流した。
「苦しかったよ……。ずっとずっと……」
「うん。苦しかったわよね。もういいのよ、葵。もう我慢しなくていいから。あなたが自分でもう手放したいと思ったら、いつでも手放していいのよ」
私はテーブルに突っ伏し、声を上げて泣いた。赤ん坊のように泣きじゃくった。熱い涙は止め処なく溢れ続け、まるでこの十一ヶ月溜め込み続けてきた毒素を排出しようとしているかのようだった。母が立ち上がり、傍に来て私を優しく抱き締めてくれた。温かい大人の優しさに久しぶりに触れたような気がした。夕方になっても私は泣き続けていた。会社から帰宅した父が私を見て驚き、心配そうに母を見た。母はにっこりと笑うと、「大丈夫」と言って私の背中を擦った。ぼろぼろになるまで泣き続けた。
私は仕事を辞める決心をした。苦しみを手放すことにした。今の職場は長居するべきところではなかった。この仕事は私が人生を懸けてすることではなかった。こんな暴力的な苦しみに、延々耐え続けることなどできない。本当は分かっていたのだ。自分がもう限界だということを。だが、認めたくなかった。社長に脅されたことが現実になり、「軟弱な若者」の烙印を押されたくなかった。だから自分に嘘を吐き続けた。母の体験と説得が、自分の本当の気持ちを直視させてくれたのだ。大泣きしたことで心がふわりと軽く柔らかくなり、温かな空間を浮遊し始めた。
その夜、家族三人で夕飯を食べていると、ポケットの携帯電話が振動した。両親に断り席を外して見てみると、店長からメールが届いていた。従業員全員への一斉送信メールだった。吉田がレジからお金を盗んでいたところを沼田が発見し、取り押さえたそうだ。取り調べを行ったところ、これまでの犯行をすべて認めたという。そして、私に罪を被せようとしていたことも。彼女は懲戒解雇されるそうだ。現行犯とはいえ、あの吉田がそんなに容易く罪を認めるのは意外に思えたが、起こるべくして起こったことだと事態を妙に静観する自分がいた。つい数時間前まであれほど悶々と思い詰めていたことが急に小さく思えた。母の言葉を受け入れ退職の決意をしてから、自分でも不思議なほど心は静けさで満たされていた。メールに私を容疑者として扱ったことに対して謝罪が一言もなかったが、それもどうでもよかった。あまりにもあっさりとした解決だった。こんなに簡単に終わるものだとは。私が必死になって尽力したのは何だったのだろう。ほっとしたが拍子抜けしてしまった。
「どうしたの?」
席に戻ると母に訊ねられた。
「犯人が捕まったんだって」
「よかったじゃない」
母は穏やかな喜びに満ちた笑顔を浮かべた。
「葵への疑いは晴れたんだな? よかった」
父も安堵したようだった。
「うん。でも、こんなにあっさりとって思うと、何か拍子抜けしちゃった。私、何であんなに深刻になってたんだろう」
「それはね、あなたが苦しみを手放す決心をしたからよ。もうその苦しみはあなたには必要なくなったということなの。さっき言ったでしょ? 苦しみはあなたを今いるところから逃がしたいだけなんだって」
母はそう言うと、ガラスのコップから麦茶を一口飲んだ。
「お母さんのときと同じだね」
牢獄から出て行くと看守に宣言したとき、首の枷が弾け飛んだという場面を思い出した。
「……そうね」
少しの間の後、母はそう言った。父だけが怪訝そうな顔をしていた。