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 別の日。

また、鞭で打たれた。

また、人面ブロックが落下し、私の腕を潰し、大声で笑った。

また、地獄風呂に投げ込まれた。

また、誰かの血染めの悲鳴が私の耳を捕らえた。

「……何で私、こんなところにいるの? 何でこんなことしてるの?」

 皆傷だらけで、血まみれだ。身体の内も外も。一晩休んで僅かの間傷が癒えても、また傷をつけられる。それが永遠に続く。何のために耐え続けている? 耐え続けた果てにあるものは何だ? いや、果てがそもそもない。ならば――。

「――何の意味もないじゃない、こんなこと……」

この苦しみの中にあるものは、果てしのない虚無だ。自分が何も見出せないところに意味は存在しないのだ。囚人たちの呻き、喚き、泣く声が両耳を突き刺し、脳をぐりぐりと無慈悲に抉る。痛い。いつもより遥かに痛い。

「何で皆こんな意味のないことしてるのよ……。何で無意味に苦しんでるのよ……。怖いからって、痛いからって……」

 悲しい。恨めしい。異形の者に屈している己の、囚人全員の非力さが、情けなさが――。

 ――ぶち。

太い紐がちぎれたような鈍い音が身体の内側から響いた。妙に生々しい音で、轟音というわけでもないのに、私の肉体の隅々まで駆け巡る音だった。はっとして周りを見渡した。

視界が急に鮮明さを増した。

鞭打ちにより背中の肉を裂かれ泣き叫ぶ者。崩れ落ちるブロックに顔面を破壊される者。地獄風呂に蹴り落とされ、溶かされていく者。地獄絵図が目に映った。目の前で描かれる阿鼻叫喚の絵は、今までにないほど強く、目の眩むような異常な色彩を放っていた。冷酷で不条理な暴力により生み出される苦痛という悪意にまみれていた。

「もう嫌だ……」

 気付くと言葉が漏れていた。こんなところに居てはいけない。苦しみと悪意のみで形作られている世界に身を置き続けてはいけない。意味のないことに苦しみ続けてはいけない。

「出て行こう」

無意識に、小さく、だがはっきりと言葉が口から放たれた。こんな不条理から逃げ出して、自分の人生を取り戻すのだ。私は一度静かに目を閉じ、見開いた。目に映し出される世界がより鮮明さを増していく。同時に、内から吹き出してくる感情があった。これまで感じてきた、重く、冷たく、どす黒いものではない。まったく新しい、軽やかで温かな光に満ちたものだ。全身に重く纏わり付いていた痛みや疲労が静かに離れていき、身体が軽くなった。余分な力が抜け落ち、立っていることがとても心地よく感じられた。見計らったかのようなタイミングで笛が鳴り、看守が足を踏み鳴らして近付いてくる。

「ようやく終わったな。愚鈍な小娘」

 そう言うと私の首に例の枷を嵌めた。看守の意地悪さが分別のない子供のそれのように宙を舞った。

「さあ、房へ戻るぞ」

 私は看守を見上げて言った。

「あなたに言っておくことがあるわ」

「あ?」

「決めたわ。ここから出て行く」

 自分の声と思えないほど低く、太い。これほど明確に自分の意志を表に出したことがあっただろうか。

「何?」

 聞こえなかったという高い音を発した。間の抜けた顔で問う看守の単眼を見据え、更に強く言い放った。

「ここから出て行くと言ったの。失った人生を取り戻すわ。分かったの。こんなところに居ても何の意味もないもの」

 看守の顔が見る見る朱色に染まっていく。顔に青黒い血筋が何本も走り、目も血走っていた。憤怒に痙攣したようにわなわなと身を震わせながら、怪物が叫んだ。

「……出ていくだと? そんなことが許されるとでも思ってんのかああああああ!」

 いつかのように牢獄が震えた。それでも私は動じなかった。気持ちはまったく波立たず、看守の怒声など発せられなかったかのように静かだった。脅そうというのか、あらん限りの大声を上げる看守はただ無様にしか見えなかった。頭に血が上り、青黒い血筋がぼこぼこと浮き出ている。今にも破裂し、大量の血液が噴き出してきそうだ。怒りに混じり、焦りの色が見えた。

「許されるも許されないも関係ないわ。私が自分の心で決めたことだもの」

 巨大な口から粘つく唾液が大量に零れた。じゅるじゅると不愉快な音を立てながら看守が唸る。

「この小娘があああああああ!」

 みしみしと怒りに満ちた音を立てて握り固めた拳を振り上げ、私を殴打しようとした瞬間、甲高い爆発音と共に首の枷が弾け飛び、大きな破片が看守の眼球を直撃した。

「ぎゃああああああああああ!」

 顔を手で覆い、みっともなく地面を転げまわる看守。複数の巨大なハンマーで床を連続して叩いているような振動に地面が唸った。

「今まで、ありがとう」

 虚偽は一切なく、私の心の奥深くからその言葉は放たれた。

私は黒い扉に向かって駆け出した。今までの労働や苦しみが嘘のように身体は軽く、痛みもなかった。傷は癒えていた。極端な寒さや熱さは感じず、身体は心地良い温かさで満たされている。無駄な緊張は一切ない。何処へでも走って行くことができる。そんな気がした。

「そいつを捕まえろ! 絶対逃がすな!」

 痛みに震える看守の怒声が背後で爆発した。他の看守たちが赤土色の腕を私に伸ばしたが、どれも動きが緩慢で、容易にすり抜けられた。囚人たちは立ち止まって私を見ているが、その表情からは何の感情も伝わらない。ただそこに在るだけ。石像のようなものだった。黒い扉が近付いてくる。もう少しだ。そう思ったとき、左腕を掴まれ、身体が止まった。後ろを見ると、目玉から血を流した看守が息を荒げて立っていた。枷の破片が衝突しても、視力は失われていないらしい。赤く染まった目が私を貫くように見据えていた。

「捕まえたぞ、小娘」

 無様に荒く息をしながらも、看守が勝ち誇ったように言う。それでも、不思議と私は何も感じなかった。掴まれた腕もまったく痛まない。掴まれている感覚すら殆どなかった。

「どうしたの? 随分苦しそうね」

「黙れ。逃げようとした罰として、首を引きちぎって風呂に投げ込んでやる。その後に、腕と脚を一本ずつ引きちぎって達磨にしてやる。他の囚人どもへの見せしめだ。覚悟しろ。ここで永遠に苦しみ続けてもらうからな」

「断るわ。言ったでしょう? もう出て行くって決めたの」

 そう言うと看守の手を振り払った。あの馬鹿げた怪力が嘘であったかのように、腕はするりと外れ、私はまた走り出した。看守がもう一方の手を伸ばしたが、それは虚しく空を掴むだけで、私と看守との距離が急激に開いていく。もう誰にも追いつかれる気がしない。扉の前にたどり着いた。入って来たときは威圧するように大きかったのに、やけに小さく、脆そうに見えた。これなら開けられる。私は大きく息を吸い込むと、肩から扉に突進した。殆ど何の抵抗もなく、扉が開いた。

来たときと同じ、松明が並んだ長い廊下がそこにあった。ただ一つ違うことがあった。来たときは暗くて見えなかった廊下の先に、小さな白い光が見えたのだ。小さいが強い光だった。私は光に向かって走った。看守が追ってくる気配はない。疲れもなければ息切れもない。心は晴天の下の海のように穏やかだった。力など何も加えていないのに、脚は私を信じられない速さで光へと運んだ。風を切る音以外、何も聞こえない。走るほど光は大きくなり、通路が満たされていく。目の前で大きさを増していく光に向かって飛んだ。

地面が消え、身体が宙に浮いた。温かな水の中をゆらゆらと漂っているようだった。真っ白な光で何も見えない。後ろを振り返ってみても、通路も扉も見えない。消えてしまったようだ。自分の身体さえ見えなくなり、身体が失われたように感じられた。それは地獄風呂に投げ込まれたときと似た感覚だったが、苦痛は一切なく、ただ穏やかで心地よかった。しばらく漂った後、私の意識はゆっくりと上方へと引き上げられていった。辺りが段々と暗くなる。穏やかなまま、まるで眠りに就くかのように、私の意識は闇へと消えた。



息が詰まった。顔が冷たい。水の中にいるのか? いや、身体は浮遊する感覚がなく、胸に固いものが当たっている。頭だけが水の中に浸っているのだ。何だこの状況はと、混乱しながら目を開いた。視界に赤いものが混じる。例の地獄風呂かと一瞬思ったが、何の熱さもない。私は急いで顔を上げた。ざばんという大きな音と共に水から顔が離れる。そこはバスルームだった。濡れた髪が顔に貼り付き、水を滴らせていた。バスタブに赤を含んだ水が溜まり、シャワーがそこへ水を注ぎ足している。バスタブから水が溢れ、足元の床に流れていた。私は慌てて水を止めた。呼吸が荒く、整わない。濡れた服から水を滴らせながら、バスルーム内を見渡した。安っぽいが温かみのある、電球の光。白いタイルの貼られた壁。水垢で汚れた小さな鏡。私のアパートのバスルームだった。身に纏っているのはあの襤褸切れではない。くたびれたいつもの部屋着だ。帰ってきたのだ。私の、本城由美子の人生に。真っ当なルールが支配する、安全なゲームの世界に。

バスルームから出ようとして、水浸しの床に転がるおぞましい物が目に入った。包丁だった。私が自ら手首を切り裂いた血の付いた包丁が、水の中から銀の目で私をねめつけていた。「何だ、帰ってきたのか」とでも言いたげに。どことなく不服そうに見えた。それを見た瞬間とあることが思い出され、はっとした。傷はどうなっているだろうか? 左手首に目を遣ると、牢獄で見たときと同じように、傷は塞がり、蚯蚓腫れのようになっている。ほっと胸を撫で下ろす。だが不思議だ。手首はずっと水に浸っていたはずなのに、どうして傷が塞がっているのだろう。包丁を拾い上げ、バスルームから出た。私の古ぼけたアパートの部屋が広がっていた。濡れて血で汚れてしまった部屋着を脱ぎ、身体を拭いて新しい服に着替えた。包丁を綺麗に洗い、新聞紙に包んでごみ箱に捨てた(自分の手首を切り裂いた包丁で調理をする気にはなれなかった)。カーテンの閉まった部屋は散らかり、薄暗い。

テレビを点けてみると、夕方のニュース番組が放送されていた。テレビの右上の時刻は十八時十二分を示している。日付を確認すると私が自殺を図った日と同日だった。自殺を図ってから一時間ほどしか経っていなかったのだ。正確に数えていたわけではないが、何日もあの牢獄で過ごしたはずだ。一日の時間はこちらより圧倒的に長かった。勿論主観による感覚でしかないが、それでもたった一時間程度で収まる時間ではない。あれは夢だったのか。いや、私が感じた痛みは、屈辱は、惨めさは、恐怖は、苦しみは、すべてはっきりと心に刻み込まれている。明らかな体験を伴った記憶として。夢という言葉で片付けるにはあまりにも鮮明すぎる。不思議だった。

部屋を片付けた。いつの間にか、水に浸っていたことで荒くなっていた呼吸が落ち着きを取り戻していた。身体は力が抜け落ち、ひとつひとつの動作が心地いい。片付けを終え、静かにカーテンを開けると、すっきりした部屋に赤々と燃える夕日の光が差し込んだ。私はベランダに出ると、沈んでいく夕日を見詰めた。沈むにつれ光が濃くなる太陽とはこんなにも美しいのかと驚いた。世界が私を祝福してくれていると、そのとき思った。両手を広げ、優しく迎えてくれている。この世界に私を無意味に傷つけ、苦しめるものは何もない。そう強く感じた。いや、それは感じたというよりも、厳然としてある事実をただ知り、受け入れたという感覚だった。

 九月になると、私は思い切って再び大学に通い始めた。死ぬような思いをした経験も、夢か現実か判然としないまま徐々に薄れていく。だがもう自殺をしようという気は起こらなかった。牢獄から戻ってきた私の内面は静けさに満たされていた。前向きでも後ろ向きでもない。過去も未来も憂いず、恐れない。徹底して「今」を見詰める。余計な思考が灼熱の痛みにより洗い流されたのだろうか。相変わらず大学では人とろくに会話をしなかったが、周囲からアルバイトに関する声は殆ど聞こえなくなった。私は静かに物語に浸った。私の人生は静穏になった。

 人生を取り戻してから、周囲の雑音はあまり私の人生に介入しなくなり、身体にこびりついていた汚れが洗い流されたかのように気持ちが軽くなった。自分のしたいことと向き合おうという意欲が生まれた。アルバイトをすぐに辞めてしまった負い目や無力感、責任への恐怖は依然として私の中に居座っていたが、そんな錆のような好ましくない感情と上手いこと距離を置くことができるようになったのだ。今をどう良いものにするかを常に最優先に考え、行動するようになっていた。この心境の変化は不思議だったが、これはこれで受け入れることにした。

 私はまた小説を書き始めた。きっかけは、本棚を整理していたときに見付けた「老人と海」の文庫本。小学生の頃より汚れや傷みが目立つ本。それを手に取ったとき、この本に魂を揺さぶられた経験が蘇り、創作の意欲に火が点いた。私はアパートを飛び出し、近所の文房具店に走った。原稿用紙の束を買い、そこに物語を書き落とし始めた。物語を書くようになってから、心の静穏は深みを増した。大学から帰宅した後の日課に執筆活動が加えられた。上手か下手かなどどうでもよかった。ただひたすら無心になれたから。ただひたすら心地良かったから。

 大学四年生のとき、とある文学賞に応募した作品が受賞し、私は作家としてデビューした。就職活動を一切しないまま卒業し、今日まで作家としての人生を歩んでいる。作家として生きていくことに、当然両親は猛反対した。お陰で両親とほぼ絶縁状態になってしまったが、後悔はしていない。

 あれから三十年の月日が流れ、私は五十歳になった。今になってあの牢獄での出来事をこの手記に書き起こしている。理由は分からない。人生を取り戻した直後、幾度となく書くことを試みてきたが、何故かいつも失敗に終わっていた。手が動くことを拒否しているかのように筆が進まなかったのだ。それが何故今になって……。

 だが何にせよ、こうして書き起こされているということは、今この手記が生み出されることが望まれているのだろう。三十年の空白を挟む理由がきっとあるのだろう。それはおそらく、私一人の意志によって決定されることではないのだ。このタイミングが最適であることを、そして、この手記が何らかの形で誰かの役に立つことを、心より願う。