緑苑堂のひとりごと

 岐阜の片隅に、春夏秋冬を問わず緑の木々が生え揃った一角がある。その奥には、深緑の蔦に覆われた六角形のお堂が建っていて、道端からは微かな木漏れ日に照らされた扉を確認することができる。敷地には誰も足を踏み入れたことがないのに、皆、お堂が本の館だと知っている。前を通りかかると、扉の奥から声が聴こえてくるのである。きまって何某かの本に関するつぶやきなのだ……。この堂を、人はいつしか「緑苑堂」と呼ぶようになった。しかし声は聴こえるのに、誰も緑苑堂の主人の姿を見たことがない。いつも聴こえるその声は、主人のひとりごとなのか、はたまた、お堂そのものが語っているのか……。いや、深く考えるのはよそう。声の主など、どうだっていい。本堂の奥からひとりごとが静かに響くのだけは本当なのだから──。
 おや、今日も緑苑堂から声が聴こえてきた。しばし緑苑堂のひとりごとに耳を傾けることにしよう……。

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『惜別』太宰治

惜別 (新潮文庫)/太宰 治

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 「右大臣実朝」――学問を愛し、透き通った心で、気品高く政治を行った右大臣実朝の美しい生き方。太宰が、まるで実朝になりきったかのように全身全霊で執筆に勤しんだのも深く頷ける。自身の人生の理想形を、実朝に投影して描いたであろうから……。
 「惜別」――後の魯迅の医学生(日本への留学)時代が、当時同級生だった東北の老医師の回想を通して描かれている。恩師である藤野先生の人間性が二人に与えた影響も深い。互いに見返りを欲することのない友人関係、師弟関係の在り方がそこにある。
 違った角度で、どちらも人間の美しさを素直に描いた2篇収載。

『坑夫』夏目漱石

坑夫 (新潮文庫)/夏目 漱石

 読み始めたばかりで書いていいのか。

 でも、ちょうど最近の自分にリンクする部分があったから書いてみる。

 冒頭は「歩くこと」がテーマになっている。

 “歩き続ける”……って、これだけのことだけど、実にいろいろなものが詰まっていて、奥が深い。

 きっと“走り続ける”ことだって、スピードは違えども同じものが内包されているはずだ。
 それを書くだけで小説になる。

 やはりこの着眼点は流石、漱石である。


 私も歩きながら考えた。

 つい最近の早朝のことだ。

 朝焼けとはいかず、雲に覆われた薄明かりの空が記憶に残っている。

 答えを見つけたくて、何も見えなくて……。

 それでもひたすら歩いていた。

 始発を目指し、Myホームを目指し。

『江戸ふしぎ草子』海野弘

 知人のブログで知り、読みたくなり、図書館に駆け込んだ。もともと歴史ものは強いほうではないのだが、最近は江戸に興味を覚えている。江戸っ子というか、その当時の雰囲気に憧れているのかもしれない。
 「女画家」の章が特に心に残った。画史というんだね。画家という表現もいいけれど、“画史”ってなんか雰囲気がある。日本中を放浪し、自由に生きる女流画史。身近で年上の男へのほのかなロマンスも匂わせ、味わい深い。雪という名前なのに、男の子のようで野性的な子供だったという描写にも趣きがある……。

 姉妹本で『江戸まぼろし草子』も出ているようだ。

『河童』芥川竜之介

河童 他二篇 (岩波文庫)/芥川 竜之介
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 後半に進むに従い、芥川ワールドに惹き込まれる作品だ。昭和2年に書かれている。それが信じられないくらいに現代的な文体である。現代の作家が現代を描いたと言ったら簡単に信じ込んでしまうほど、ポップである。その分、昭和初期にこの物語を読んだら、相当新しい感覚と受け取られたことだろう。

 晩年の作品である。この数ヵ月後に芥川は自ら命を絶っている。主人公は精神病院の患者として描かれている。龍之介(私は竜之介よりこちらの表記が好きだ)は自分もそうなってしまうことを恐れていたのだろうか。どこかでそんな記述を読んだことがある。その恐怖を前にした絶望だったのか……。

 龍之介は少年のような人だと思う。『芥川龍之介の鎌倉物語』〔鎌倉文学館〕の中に、婚約者(のちの妻)・文に宛てた恋文が数篇載っている。その文面は、少年が少女に恋したかのようなイノセントな言葉に満ちている。こんなに純粋な人だったんだ。ただひたすらにまっすぐ……。私はこのラブレターを目にして、芥川龍之介が本当に好きになった。

 純粋さが作家の資質のひとつならば、芥川の絶望もこの純粋さに因るのだろう。実際のところ、絶望していたのかどうかはわからない。違う理由があったのかもしれない。でも『河童』の中に躍るユーモアは、絶望の裏返しで、それは太宰作品にも通じるような――そんな気がしてならない。


 夏目漱石→芥川龍之介→太宰治


 この川の流れは、やはり日本の文壇のセンターラインであろう。

『トルストイ民話集 イワンのばか』トルストイ

トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇 (岩波文庫)/トルストイ
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 表題作の「イワンのばか」が、やはり一番胸にグッと来た。宮沢賢治の「ホメラレモセズ クニモサレズ」に通じる、謙虚な生き方の美しさを感じる。こういう生き方って、やはり難しい。でもそういう人がいるおかげで、まわりの人間には恵みが与えられる。これだけは普遍の真理だと思う。こういう視点は好きだ。

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