ボツ | text of KATARA

text of KATARA

小説、シナリオ、エッセイなど。

Amazonで出版していた電子書籍のエッセイ集を2つ、少し前に販売停止にしました。読み返すと違和感があったからです。ちょっとエラそうに感じました。

しかし書いた当時はそんな風に思わなかったし、いつもならその当時を尊重して「これはこれ」と許容します。当時のベストの結果、なのは間違いないからです。

でも今回はラインをちょっと超えてる気がしました。映画やドラマや漫画などの感想をいくつか収録してましたが、作り手に対して配慮が足りないような、批評にしても自己主張が強すぎるような。

批評の内容自体は今もおかしくないと思うものの、書き方の問題です。もっと言い方あるだろうと。

ほんの数年前に書いた文章ですが、まるで他人が書いたように感じました。今ならこんな風には書かないし、これを読まれて今の自分(というか作品)を判断されては困る、とも思いました。

もちろん停止するのは抵抗あって、潔くありませんものね。未熟も恥も過去の自分です。消そう隠そうとするのはズルいような。後味悪い。

ただ毎月いくらかでも読まれ続け、それが誰かを不快にするならよそうと。

今までそれなりに読まれても賛否は特にありませんでしたから、考えすぎかもしれません。

でもそれ以外の文章についても、読者を楽しませるより自己表現を重視するような点が見えました。また出版にあたって「ある程度の分量は必要」とムリクリこさえた文(と当時は思わなかったけど)もある気がして、総合的な判断です。

いくらか直せば今でも読んでもらっていいかな、と思えた文については、このブログに再掲してます。興味を持たれたらどうぞ。

さて以上は弁解ですが、たった数年で自分の書いたものがこんなに違和感出るんだな、不思議ね、というのが今回のお題です。

本質は変わってないつもりだし、若い頃のように変化することはないと思っていたので、ちょと意外でした。

新しいこのエッセイを書き始め、書き続けてるのは影響してるかもしれません。

以前のエッセイと違うのは、「電子書籍で出版しよう」という前のめりが今のところない点です。とにかく物語のことをわかりやすく、多くの人に、身近なところから、と考えていて、以前のようには力んでないつもり。

いや、それも現時点での自覚です。最初の頃は違ったかもしれません。「とにかく核心を」とせっかちに、その核心がしっかり伝わるようなネタを選んでた気はします。

でもある程度書いてしまってからは、「さて次は何を?」と探すような、その時々に気になったことをなんとか物語に絡めて形にする時期はあったと思います。それまでのストレートな構成とは違い、なかなか慣れず努力の跡が見え、もう少し経つとさらに冷静になって「読みにくい」「直したい」となるかもしれません。この文章だってそうかも。

でも直しだしたらキリないですよね。

同じような意見は創作に関わる人からよく聞きます。完璧を求めたらいつまでも終わらない。完成なんてしない。

例えば漫画家やアニメーターは自分の絵を一定期間置いて見ると「下手」「恥ずかしい」となるらしく(一部の人かもしれません。また素人目には全部うまく見えるんですが、とにかく)そのぐらい日々成長するのだとしたら、どっかで見切りをつけないといけないんでしょう。もしくは「締め切り」のような他力がないと終われない。

まぁ自分の場合は成長じゃなく変化でしょうけどね。心境の変化。

もうちょい毒は控えた方が…と思うに至ったのは人間が丸くなったから、思いやり深くなったのかもしれないけど、単に気弱になったのかもしれません。前進したかどうかはわからない。

加筆訂正しマイルドにしたら面白味も勢いも失せ、誰にも響かなくなる可能性はあります。ボツにしたらそもそも無になる。

それがいいことかどうか。どんどんよくなってる、なんて自信はありません。

ではなぜ変化するのか。否応なく変わってしまうとしたら何が原因で? と考えると、自分のエッセイなら繋がり、継続だと思います。

これを書いたら次はこれを書きたい。いや書かねば。こっちも触れないとバランス悪い。

そんな風に次々書いていて今のところネタは尽きませんが、一度書くと気が済んだりします。前に書いたな、と思うと多少ひねりや何かを加えるか、それも無理なら「いいや」となる。「よそう」となる。無理に書かなくなる。

そんな風にこれまでの積み重ね、流れで徐々に変わって行ってる気はします。

そもそも何かを書くって自分にはデトックス効果があるようで、誰に読まれなくてもそう、形にするだけで決着がつく。消化できちゃう。

それはしかし自己都合で自己満足ですから、何かを表現する者としてはまずいのかも。

と、こんな文章も数年経つ恥ずかしかったりエラそうに見えるかもしれませんね。

人はどんどん変わるもの、気にすることない、という意見も聞きます。

人の体は実際どんどん細胞が入れ替わってる、と。脳細胞以外はすべてそうで、皮膚は4週間、血液なら4ヶ月、骨の細胞はちょっと長いけど4年で全部が入れ替わるそう。

実際に別人になってるんだから感じ方や考え方が影響されないはずない。

そう聞くとちょっとほっとします。

でもいつまでも固まらないのは、別の不安も生みます。定期的に過去の自分や書いたものを嫌悪し後悔し続けるのかな。

エッセイなら避けられないのかもしれません。自分とは切り離せないものでしょうし。

というのは、小説だとこの違和感がずっと少ないんです。

10年前に書いた小説だとさすがに「今ならこうは書かない」というのはありますが(そもそも手探りで書いてたんでしょうし)ここ数年のあいだに書いたものはほぼそういったのがありません。

とは言っても自分の小説を読み返して「まぎれもなく自分の作品」と感じるわけじゃなく、ほかの誰かが書いたように感じます。

それは書いてる時点で自分を消そうとしてるからだろうと。

物語にとっての最適だけを考え、自分臭はとにかく削いでるつもりです。邪魔でしかない。

その副産物が違和感の少なさになるんじゃないか。自分がエッセイよりフィクションの創作を好むのは、そこらも理由かもしれません。後悔はなるべく少ない方がいいですしね。
 

 

物語についてのエッセイ・目次

 


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