エッセイを書く時はなるべく自分の話に限定しようと思ってます。
他人についてなんやかや書くのは気が引けるし、けなすのは勿論だけど褒めてもなんだか偉そうだったり、思いもよらない点で配慮が足りず相手を傷つけたり、それが自分に返ってきたり。
まぁそんな影響はほぼないんですが、もしもの予防で自分まわりに限定しようと努めてます。
自分のことなら多少は言い切れますしね(多少です)他人にいくらおかしいと思われても自分が実際そうなんだからしょうがない。
でも自分のことなんぞ基本的には書きたくありません。誰も興味ないだろうと。つまんない人なのは自覚あるんで私生活や思い出などは書く気になれない。「物語について」とお題を限定してるのはそれでです。それなら少しは書いてもいいかと。
でも「物語について」と「自分の話」と縛りが2つあると、ネタはだいぶ絞られます。そうそうない。なので他人の話や世の作品にどうしても触れることになる。でもそれは気が進まないので書いてもかなりフワッとなる。
だいたい自分のことなんぞ書きたくないのに自分の話に限定しよう、というのが矛盾してるんですよね。どう考えても無理あるじゃんそんなエッセイ。
フィクションの創作を好んだのはそのあたりが理由かもしれません。自分を出さなくていい。言いたいことは登場人物の口を借りて言う。これぞというものだけに絞り込んで。
それがちょっと立派なことでも架空のキャラが言うことです。作者が言わせてますがあくまでキャラの言葉で、責任は避けられる。受け取る側も架空のキャラの言うことなら軽く流せるでしょう。そこらが性に合う。少なくともエッセイで(自分の言葉で)言うよりいい。
しかし物語を書く方が楽かというと、そうでもありません。どんな仕事とも共通するでしょうがあちこちに気を回す作業です。
ちなみに仕事というのはその字のごとく「仕える事」と思っていて、誰かのためになってるのが条件だろうと。もちろん第一には自分の食いぶち稼ぎ、自分のためですが、それだけでなく誰かのためになってるかどうか。
なので泥棒などは仕事じゃないですね。詐欺の片棒、手先、それが詐欺グループのリーダーのため、愛する家族を養うためでも結果が迷惑なら仕事でなく犯罪。
また自給自足で田畑を耕したりも仕事じゃないでしょう。労働じゃあるけど仕事じゃない。誰にも仕えてない。うらやましい。
仕事となれば相手があるから気をつかうのは当然で、例えば小説ならまず読者のことを考えるものでしょう。自分は電子書籍の自主出版なので編集者や出版社への気遣いはありません。
まず読みやすいように、と考えます。冒頭いきなり世界観の緻密な描写から入っては読者にとって負担かもしれない。文字を目で追い理解するという行為自体そこそこ負担なのに、作者の自己中で進めてはすぐ関心がゼロです。終了です。
しかし小説は文字だけですから基本「説明」で、時代小説を読みたい人にSF小説を読ませても迷惑だし早く世界観なりなんなりを展開しないといけない。でも読み進めてもらうにはまず興味を持ってもらわないといけない。事件を起こしたり不穏な空気を見せたりして「これからどうなるんだろう?」と思ってもらえれば説明も読んでもらえます。
読みやすさと同時に面白さですね。ここは絡み合っていて読みやすさが面白さに繋がったり、読みにくくても面白ければある程度持ちこたえたり、いくら読みやすくても面白くなければやめられたり。
そして面白さのツボは人それぞれ。謎に惹かれるのは典型ですが、機微を味わう人もいる。そのいろいろを取り揃えればみんなをカバーできるわけじゃなく、ある人にとっては面白いものがある人にとっては退屈きわまりなかったり。
で、取捨選択せざるを得ない。その結果、人を選ぶものになる。
絞っても面白くする工夫はそれ自体難しく、わかりやすいと「よくある」「先が読める」「あざとい」と言われ、引っぱり過ぎると「いい加減にしろ」と思われます。工夫は作者の意図、匙加減ですから、目が肥えてる人にはすぐバレる。
でもそんな人はごく少数で、それでも気にするか。気にせず他の広い層を対象にするか。
そんなこんなもうまく表現できてこそですが、伝わるかどうかはまた相手次第。読解力想像力は人それぞれですから、ある人にとっては説明過多な描写が別の人にはちょうどよかったり、全然足りなかったり。
誰に合わせるか。どこらがちょうどいい塩梅か。
読者だけでなく登場人物にも気をつかいます。自作のキャラですが性格、個性、境遇などを設定してるので外れないようにする。別人格として尊重する。こんな時にそんなことは言わない人じゃ? この状況なら泣かずにむしろ怒るんじゃ? 矛盾や無理があっちゃリアリティーをなくす。「あり得ない」と読者が思えば離れていく。終了。しかし存在感があっても魅力がなければ終了。
それでいてキャラの好き勝手に動かれては困ります。展開させたい流れがあるのにそっちに進んでもらえない。ストーリーが破綻する。なので無理なく進めるようにシーンを追加したり、別キャラで気持ちを代弁させ興奮を静めたり、感情をコントロールする。ここでもバランス。
そして展開させたい流れというのは、作者のめざす方向(テーマの表現や面白さや感動のゴール)のためだったりしますが、そういう自身の目的にも気をつかう。そこがブレたらなんのための創作かわからない。でも狙いすぎるとストーリーにもキャラクターにも無理をかけ、結果読者は離れていく。どこまで自分を抑えるか。捨てるか。捨てずにどこまで維持するか。ここでも綱引き。
あちこち気を回し全体を見渡して最適となれば完成となりますが、その判断もある時点のものです。正解かは怪しい。切り上げるのはさんざんこねくり回して疲れ、厭きて、というのが自分の場合は多そうです。「もういいんじゃない?」「さすがに大丈夫っしょ」
でも時間を置くと「あそこはダメだった」「なんで気づかなかったかな」となったりします。時間を置けば置くほど目につく。
その判断も経過時間で自分自身が変わったせいかもしれないし、数年経てばまた変わったりしてあてになりませんが、ともあれ見放すような気持ちにならないと完成とは呼べなかったり。その結果過去作にはどうしても悔いが残る。
それが「次はもっといいものを」というモチベーションに繋がったりしますが、まぁまぁ面倒だし疲弊します。取りかかれば半年なら半年ずっと寝不足で、たくさんの人に読まれたり大金が入るならまだしも、自分の場合はなんなんでしょ? しんどいな、と思いながら続けてる。やめられない。マゾっけあるのかな。
でも物語は自分だけで完結できるものです。通常の仕事は自分以外の他者と絡み、思い通りにばかりいかないし小説だって出版社と関われば同じでしょうが、自分の場合はそれもない。
お気楽はお気楽です。自由。そして小さな世界の創造者、支配者になれる。
また自分とは別人の人生、その一時期を共にするような経験ができます。これは自分が読者の時に味わう楽しさと近い。
そしてあれこれ面倒あっても「完成した」 カン違いでも「よくできた」という満足感、「ちょっと偉そうなことも言ってるけどまぁ世に出すのは意味あるだろう」という自己満足もあります。
となると仕事と呼べるかは微妙ですね。自分のためがほぼほぼを占めてる。
まぁ誰に頼まれたわけでもなく書いてる以上、反応ないとそうなります。誰かを楽しませたり何かの役に立ってれば「仕事」と呼べるけど、そんな影響が微塵もなければただの「趣味」で片づけられる。
それは筆者じゃどうにもならないのであまり気にしません。「仕事なら立派?」とも思うし。趣味なら趣味でいいじゃない。なに悪い? 仕事なんてしょせんは誰かに「仕える事」でしょ。
そんな風に自分で自分に反論、反転を繰り返すうちだんだんたまってく。ゴチャついたのを整理したくなる。で、書きだす。自家発電。それをずっと続けてる感じ。
こんな話は面白いですかね? ほかのクリエイターはどうなんでしょう。自分はそっちに興味あります。自分のことだけじゃなく他人についてももうちょっと書くべきかもしれませんね。