リアリティーについて | text of KATARA

text of KATARA

小説、シナリオ、エッセイなど。

このまえ時代劇を見てる時にふと馬が気になりました。

「アレ? 競馬の馬と一緒じゃね?」

乗ってるのがみんなシュッとしたサラブレッド種なんですね。シュッとした種なんです(笑うとこデス)

調べたらやはりサラブレッドは近代になってから日本に来た種で、日本の在来馬はもっとずっと小さかったらしい。今で言うならポニーと呼ばれるタイプで、大柄な人だとまたがった時に足が着いちゃったらしい。なのでドラマや映画で見た場面はだいぶ違うようです。

言葉も現在とは違って、確かに今でも地方のお年寄りの方言は何を言ってるかわからなかったりしますから、さらに数世代前だともっとでしょう。本当なら字幕を付けなきゃいけないくらい違うらしい。

歴史に詳しい人はそこらをわかっていて、「違うんだけどなぁ」と思いながら時代劇を見てるそうです。でも知識のない人はスルー、疑問さえ出ない。そういうものと信じちゃう。無知って怖いですね。ウン十年生きてきてやっと「アレ? 競馬の馬と一緒じゃね?」なんて気づく。遅いよ。

間違った知識を植えつけないためには正しく在来馬を使うべきなんでしょうが、フィクションの製作者はそこまで気にしませんね。サラブレッドの方がカッコイイ、画になるってことなんでしょうけど、罪深いですねぇ。

まぁ見る方は歴史を勉強したくて見るわけじゃないでしょうから。製作者はそれに乗っかって「史実と違ってもご愛嬌」ぐらいのスタンスなのかも。

時代劇ってもうファンタジーですもんね。現代とは違う世界。別世界。いま見ると「あり得ない」ってことも「そういう時代だった」で済む。「そういう世界なんよ」

そんな風に納得するしかないフィクションはとても楽なんだと思います。見るのが。

現代を舞台にしたら「そんなことある?」「ちょっとおかしくない?」と比較、検査をしてしまうけど、それじゃ単純に楽しめない。時代劇はそんなこと気にしなくていい。「そういう世界なんよ」

あえて時代劇を見るのはファンタジーを求めるって要素が大きいかもしれません。

そしてそれは韓流はじめアジアのドラマが人気なのにも通じるかも。

見た目は欧米人ほど離れてないから身近に感じる。でも外国だから文化の違いはあって、気性も振る舞いも自分たちとは違う、違うはず。だから比較なんてできないしする必要ない。で、心置きなく楽しめる。

実際にその国の人が見たら「リアリティーない」というドラマでも、日本を舞台にして日本人が演じたら「ないない」と思うドラマでも、外国のものだとアリになる気がします。ちょっと距離があると受け入れられる。

まぁ日本の現代ものは気にし始めたらキリないかもしれませんね。自分が今でも気になるのは「女言葉」です。

別のエッセイでも書きましたがリアルに使うのは60代以上でしょう。あとはオネエと呼ばれる人たち。ぽさを強調するため。

「冗談じゃないわ」

しかしフィクションでは当たり前のように使われます。

小説で使われるのはまだわかるんですね。自分は小説でも使わないけど、小説は基本文字だけですから。ビジュアルありません。男女ふたりの会話を書くにもいちいちどっちのセリフか説明しないといけない。でもセリフのあいだあいだに「~と太郎が言った」「~と花子がうなずく」と地の文を挟めば挟むほど会話のテンポは悪くなります。そこで女言葉を使えばどっちのセリフかわかる。使ってない方が男とわかる。超便利!

それに比べて映像の場合はビジュアルあるんだし、女優さんが映ってなくても声で女性とわかる。女言葉を使う必要ない。しかしいまだ使われる。海外のドラマや映画の吹き替えでもガッツリ使われます。クリエイター側にかなり染み込んでるんでしょう。違和感を感じないほどになってそう。

女言葉はまぁ細かい点ですが、キャラクターの言動が矛盾してる、なんてことも当然あります。

自分にとってはそれ「リアリティーない」となるんですが、しかし人間そもそも矛盾してるもんだしな(このエッセイ群でも矛盾してることをいっぱい書いてます)「あえてそれを描きたかったのかな」と思い直したりします。

でもそれならそれで「矛盾してるじゃないか」というツッコミと「人間そういうもんじゃ」という反論がフィクション内でやりとりされてもよさそうな気がしますが、それもない。

じゃあ作者にとっては「矛盾してないのかも」と思ったり。「おかしいおかしい」と反応してるのアタシだけ?

リアリティーなんてのは結局自分が「納得できない」「乗れない」というハードル、勝手に設けたもので人によるのかもしれません。

そして自分の中でも刻々と変わるのかも。

例えばテレビドラマや映画の一場面でチープなCGが使われたとします。あえてチープさでウケを狙う場合もありますが、そうじゃない場合は「しょぼいな」と冷めたりします。CGとわからないぐらいじゃないといけないのに、わかった時点でアウト、リアリティーない。

でもそんな目で見たら過去の特撮ものはほとんど見られないでしょう。

CGの進化はめざましく自然に目が肥えてるようで、数年前にスルーしたCGシーンもいま見ると引っかかったりします。

これはちょっとよろこべない。当時の感動が薄れたりしますから。

でも思えばチープだろうと洗練されてようとCGはCGです。たいして違わない。大差ないと言えばそう。

そしてCG以外にもそれは言えるんじゃないか。しょせんはフィクションです。作り物です。ちっちゃなことは気にすんな(ゆってぃ)というのが自分の今のとこの結論です。

例えば映画やドラマや演劇では似ても似つかない俳優たちが家族を演じます。親子だったり兄弟姉妹だったり。

それも思えば変ですよね。引っかかっても不思議はない。なのにそれはお目こぼし。なぜ?

「いやいや、そこはいいっしょ」「それは言いっこなしで」となるんでしょうが、自分もいいと思います。賛成。フィクションは一から十まで作り物ですから。

でもそれがアリなら他もアリじゃないかと。

CGがしょぼいとなに? 史実と違ってるからどうした? 女言葉を使ったっていいじゃない。

リアリティーという個人的なフルイ、コダワリは楽しむのを邪魔するだけで、もったいないかもしれません。ストライクゾーンを狭くする。

かと言って「選り好みはいけない」というんでもありません。細部にこだわるから味わう力もつく。

なんでもアリと受け入れるばかりじゃ偏って差別的で害悪になるフィクションさえ気づけないかもしれません。見分けてふるい落とせる能力は大事でしょう。

賞レースなどは当然ですが選別するものです。「今までなかった」「他とは違う」と注目したり競い合うから進化も進歩もする。

しかし「しょせんは作り物」です。「大差ない」という身も蓋もない視点はあっていいんじゃないかと。それがないのは目をそむけてるだけじゃないかなぁ、という気がします。

 

 

物語についてのエッセイ・目次

 


▼クリック感謝! 
にほんブログ村 
人気ブログランキング