不思議、大好き! -6ページ目

不思議、大好き!

文章はすべてフィクション。ほぼ1話完結。

僕の住んでいるタワーマンションの一階ロビーには、ソファーがある。ゆったりとした空間の中にあり、ふっくらとした本革のベージュ色をしたソファーで、ついつい腰を掛けたくなるような造りだった。マンションを出るときには、目にとまる。

ここ最近、そこには江川さんが座っていた。最初は気にも止めなかったが、座っている頻度が多いので、いつしか気に止めるようになった。もしくは、僕をそうさせる何かが江川さんにはあった。

江川さんはアラフォーで、旦那さんと2人暮らしだった。あまり感情を面に出さない人で、だけれど、笑ったときはとてもチャーミングなえくぼが出来るのが特徴だった。あと、髪の毛も特徴的で、黒髪のロングなのだが、いつしか交わした会話で、ドライヤーを使わないと言っていた。

指で梳いている内に乾くのだという。黒々とした髪の毛で、特に細いとか、量が少ないとかには見えなかったが、そういうことらしい。そう言われてからは、妙に彼女の黒髪が気になった。

江川さんとは、部屋が割と近くて、合同避難訓練とか住人の集会とかで話したことがあった。災害時には江川さんとこのベランダの壁を蹴破りますとか、私の次に江川さんが点呼されますとかの確認の時に話をする程度だったけど。

江川さんについて、いくつか知っている。江川さんは製作会社のディレクターで、スキニーのパンツルックで冷静にディレクションをしている様子をクールに話していた。旦那さんは大手映像会社のプロデューサーで、MTVとかを自らも手掛けるやり手のクリエイターでもあるらしい。

僕は旦那さんを見かけたことはない。2人でいるところも見たこともない。そして子供もいなかった。

そんな江川さんが、僕が朝方帰ってきても、夜遅くに帰ってきても、エントランスロビーのソファーに座っている。

何かあったんだろうか、とも思ったけど、詮索するにも気が引けるので、目が合った時に会釈するくらいで気にしないように努めていた。

でも、ある時、噂話が僕の耳にも聞こえてきた。

…江川さん…不倫しているらしいのよ…

世間にはよくある話で、所詮他人の内輪問題だし、だからってどうといことはない、と考えていた。でもまあ、壁を蹴破るときに不倫相手と出くわしたら気まずいなって思ったくらいだった。いや、それが不倫相手なのか旦那さんなのか僕には分からないなって、変なことも思ったくらいで。

そのうち、あんまりエントランスロビーに江川さんがいるんで、こんなことを考えるようになった。

何を考えているんだろう。なんで、わざと人目に付くところにいるんだろう。誰かに、何かを訴えているんだろうか、気付いて欲しいことがあるんだろうか。

まあ、不倫していると仮定して、そりゃあ旦那さんとの部屋にはあんまり帰りたくないんだろうなとか。頭を冷やす場所として、部屋でもない、外でもないエントランスロビーのソファーがちょうど良いのかもしれないなとか。僕より年長者の江川さんは最も高尚なこと考えているのかなとか、馬鹿なことを勝手に思ったりしていた。

そんな折、いつものように夜マンションに戻ると、やっぱり江川さんがいた。気になっていたこともあって、目があってから会釈するまでに、間延びしてしまった。まずい…なんか話さなきゃ……みたいな…。

立ち止まってしまったので、僕は恐る恐る江川さんに近づいて、江川さんの向かいのソファーの端に腰を下ろした。僕と江川さんの間には強化ガラスのラベルの付いたテーブルがあった。その上に知恵の輪が置いてあり、無性に解きたくなったが、そんなわけにはいかない。

こんばんは、と挨拶をすると彼女も返してくれた。でも、そのあとが続かなかった。こんな時は、全く頭が回らないのは僕の欠点だ。

江川さんには何か張り詰めた雰囲気があった。そして、僕とは関わりのない全く違うことを考えているようでもあった。無視している訳じゃないけど、まるでホールで作られたはずなのに、精巧に切り分けられ、単体で生まれたかのような高級なチーズケーキのように。

挨拶を交わしたときには笑顔で、確かに、僕に意識を向けられていたんだけど、僕を通り越して、僕とは全く違う景色が見えているようだった。そうであっても、僕は彼女のえくぼに気を取られて、また彼女の目に淀みがないことに目を息を呑んだ。

淀みのない瞳は、彼女をとても若く見せた。綺麗な黒髪ということもあって、十代後半か二十歳くらいに見えた。僕はなんなんだろうと驚いてしまった。

と同時に、直観として彼女は旦那さん以外に好きな人がいるんだとも思った。なんでか分からないけれど、張り詰めた雰囲気と淀みない瞳が僕にそう悟らせたんだと思う。そんな江川さんに、僕は完全に圧倒されてしまった。

結局、僕の出る幕はないと思い、さようならと言ってその場所を去った。そうすることが精一杯だった。僕としてはよくやった方だと今でも思う、うん。

それからしばらくして、江川さんの姿は見えなくなった。江川さんが住んでいた部屋の表札も、石川に変わっていた。え??とも思ったが、それも内輪の問題で、詮索しても仕方ない。

旦那さんはまだ住んでいるようだったけど、姿は全く見かけない。江川さんが居なくなって、旧江川さんの部屋は全く生活感を失った。見かけなくなって、最初こそ近所の噂好きのおばちゃんたちが、やっぱり離婚したのよとか、あの部屋の名義は奥さんのものだったのかしらとか、あちこちで飛び交っていたが、その内タバコに煙のように消えていった。

それは、僕も同じだった。でも、江川さんの記憶が薄れる中で、今でも思うことがある。それは、エントランスロビーのソファーを見かける度に、ほのかに漂い、僕の頭をかすめるのだった。



人は恋をすると、あんな瞳になるんだろうかと。
夜のベンチ。隣はゴルフの打ちっぱなし場。煌々とライトアップされた芝生の上に、無数のゴルフボールが落ちていた。

打ちっぱなし場を見ると、まぶしかった。静寂の中で、時折、コンとかコツとか、ゴルフボールを打つ音が聞こえる。なんだかそれが、こうした環境が、心地良かった。

自転車のペダルを漕ぐのをやめて、ベンチに腰をかけた。

落ち着いて自分を見詰め直せる気がした。転がったゴルフボールのようなものが、胸の底にたくさん落ちているような気がした。その時は、拾うのが楽しみな気すらした。

でも、焦ることはない。時間はそんなに残されてはいないけど、ゆっくりやればいいさって思えた。そこで、僕はタバコに火をつけた。

目の前に転がったゴルフボールを、どうやって拾うんだろう。床のゴミをセンサーで感知して拾う、掃除ロボットみたいなので拾うんだろうか。想像したその様子が滑稽で、かわいらしい。

でも、僕はそんな器用なことはできない。やっぱり手で拾い上げるしかないな。そう思った。

淋しさに打ち勝とうとして、誘惑を目の敵にして、頑なな自分の性格を呪ったりして。一つの濁りもなく、逢いたいのに我慢したりして。アル中のように仕事に没頭したりして、自分の思いを誤魔化そうとしたり。

そんなこともおだやかな気持ちで、足元に落ちたゴルフボールを拾い上げることができた。

忘れ得ぬ人が、そっと微笑んだりして。亡くなった祖母は、こんな僕をどう思うのだろうとか。影ができないくらいライトに照らされながら、僕は考えず想い続けながら、ボールを拾い続けた。

後ろの駐車場で子どもの泣く声がした。子のある人なら、ソワソワするのだろうかと思った。まるで、自分の子どもが泣いているように思うのだろうか。

ゴルフの打ちっぱなし場には、人影はなかった。でも、誰かが、コンとかコツとか、ゴルフボールを打ち続けていた。遠すぎて見えないだけかな。

ある時期は強くなろうとして、ある時期は逃げ続けたり。意志をもって歩き続けたはずなのに、当てもなくただ歩いてきただけのような気がした。



もっと笑いなさい。ほら、口角を引き上げて。いつか夢見た場所は、それほど離れてないはずよ。
昨夜。夢を見た。

辺りは真っ暗。息の詰まるような闇の中に僕はいた。姿は見えないが、耳の尖った狡猾なコウモリが、天井にぶら下がって、じっと僕を睨んでいるような気がした。

黒光りする大きなマントを、胸の前で交差して姿を隠し、息を潜めている。僕が油断した隙に、一気に襲いかかるつもりだ。尖った爪をもつ脚はしっかりと天井の僅かな凹凸を掴み、準備を整え、ギラギラした目で僕を狙っている。

カタン。何かが動き、物が落ちる音がした。コウモリは舌打ちしながら、耳をそば立てた。僕は音のした方に目を向ける。

明かりがないから何も見えない。でも気配はした。白いワンピースを来て、白い麦わら帽子を被った女性がいる気がした。

ゆっくり近づいてくる。僕のパーソナルスペースを侵しながら、ゆっくり。僕の意識はギリギリと縛り上げられていった。

考える余地はなかった。身動きすら上手くできない。固唾をのんだ。

すると女性はそっと僕の両手を取った。そして、両手を取りながら僕の周りをクルクル回り始めた。握られた手には白い手袋がされているのが見えた。

笑っているようだった。でも、声は聞こえないし、見えるのは手袋だけ。手袋越しに華奢な手の感触を感じた。

少し怖くなって手を振り切ろうかとも考えたのだけれども、そう思うと、察したかのように物凄い力で握り返してきた。

クルクルと回されるうちに、コウモリのことを考えた。コウモリはどうしたんだろう。たぶん、目を大きく開いて、マントの下の裂けた口で嗤っているのだろう。

気がつくと、暗闇ではあるが、そこがどこだか分かった気がした。そうだ、父親の書斎の前の廊下だ。僕らはその扉の前で回っているんだ。


そこで目が覚めた。


雨が降っていた。風が強く、雨粒が窓を打っている。外は白みがかっていて、夜は明けていた。

眠れそうになかったから、部屋でタバコを吸ってやり過ごすことにした。青みがかった部屋の中で紫煙が立ち昇った。あの夢は何だったのか考えたのだけれど、よく分からなかった。

着替えて、洗面台に立って身支度をした。何も変わらない日常が目の前にはあった。でもずっと夢のことが頭から離れなかった。


彼女が起きてきて、「おはよう」と僕に微笑んだ。前髪を真後ろに上げて、メガネの右下の縁を、右の人差し指の第二間接の背で押し上げた。とってもキュートだ。

僕はその仕草がとても好きだった。思わず僕も微笑む。彼女は僕の胸に飛び込んできた。

しばらくそうしていた。僕は彼女の背に手を回した。彼女が何をしているのか僕には分かっていた。

「あなたの心臓の音。わたし好き。とっても落ち着くの」

白い手袋をしていたのは彼女かもしれない。ふと思った。でも確信がなかった。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。

彼女に夢に話をしようか迷ったが、全然違う話をした。

「昨日、部屋の掃除をしていたら、写真が出てきたんだ」

「なんの写真?」

「ほら、僕と君が出逢った時の、ショップの送別会で撮った集合写真。あの時は、僕と君がこうなるとは思ってもみなかった」

「でも私は気にしていたのよ、あなたのこと」

「僕も…女の子がとっても多い職場だったけど、休憩時間に君と話すことしか考えていなかった」

「あれからずいぶん私は我慢したのよ。何年も。でもこうして2人でいられて…今はとっても幸せ」

「僕も、君に愛されて、君を愛して、すごく幸せ」





その夜。
僕は再びコウモリに遭った。

森の中。巨大なコウモリは木製の野球バットに金網を巻きつけて、僕を待ち伏せしていた。走って逃げたが、コウモリは、口笛を吹きながら、行く先々で待ち伏せしていた。

そのうち、僕は逃げ疲れて、コウモリの前でひざまづき、頭を垂れた。

すると、コウモリはバットを肩に担ぎながらゆっくり近づいてきた。僕は、汗が滴り、目を開けていられなかった。目を閉じて、コウモリの審判を待った。

コウモリは片足ずつ大きく上げて回るように歩き、じわりじわりと、場を弄ぶかのように、近づいてくる。

カチリと砂利を踏みしめる音がした。

スゥと息を吸い上げる音がした。僕は目を開きながら、コウモリを見上げようとした。コウモリの不気味に盛り上がった隆々とした脚が見えた。

その時。大きく振りかぶって、一気にまっすぐ打ち下ろした。頭頂部は陥没し、骨が砕け散り、脳が破裂した固く鈍い大きな音が耳元で聞こえた。

次にバットの先端が逆側の肩に届くほど体を捻り、もう一撃。フルスイングの2撃目。こめかみから鼻下にクリーンヒットして、グヂャリと音がして、血飛沫とともに左の奥歯と前歯が吹き飛んだ。

僕は横殴りのまま倒れた。意識は酷い喘息の人の呼吸音のように途切れそうだった。自分のどす黒い血だまりの中で、もう指一本動かなかった。


僕はここまで何か致命的な間違いを犯したのだろうか。途切れゆく意識の中で考えた。…確かに間違いはたくさんしてきた。

…そういえば…彼女はどうしているんだろう…


ビュンと空気が金属の隙間を鋭く通る音がした。


前頭葉と顎が一気に砕かれて、完全に顔を潰された。


僕はそこで途絶えた。
夜の小川のせせらぎが好きだと言っていた。夜中に2人でその音を聞いたことがある。僕らはただ音に耳を澄ませていた。

たしか、車の中で彼女はうずくまっていた。膝掛けを肩まであげて、窓ガラスから耳を出して。闇が僕らのいる車を覆っていた。

せせらぎの波紋は僕らの心にそれぞれぶつかる。そして新たな波紋ができる。心に反響した波紋で僕らはお互いの気持ちに触れることができた。

そうやって時を過ごすことが僕は好きだった。

幻のような時間が幾度も目の前を流れては消え、消えては現れる。

深々と流れる川の音は汚れを洗い流すように、心は浄化されていった。



でも、僕には分かっていた。



こんなことはもう無いのだ、と。



いつまでも続きはしない。はじまりとおわり。必ずセットで訪れる。



あと何時間かすればこの時間は終わりを告げる。



遠くで聞こえた。子どもの泣き声や犬の咆哮。喧騒に気が揺れた。



ねえ、こんなことってあると思う?



どんなこと?



今この瞬間が永遠に続くこと



そうなるといいね



互いに微笑みがこぼれた。



次々と紡がれる川の音に沿って、時がゆっくり僕らを二人の世界から押し出そうとしていた。腕時計が気になった。でも見ない、見たくない。



あの日、この時。僕らは時折そうして思い出すだろう。束の間の永遠を願ったことを。



死の淵を辿るとき、僕は何を想うのだろう。誰にも分からない。誰にも伝えられない。



そうであっても、自分が何を振り返るのか気になった。



千の夜のひとつ。夜空にはひときわ輝く星があった。きっと僕はそれを凝視しながら、触れられずに終えるのだろう。





そう思い、彼女の手を取って、握った。
夜中に心を覗く。真っ暗だった。でも、じっと見詰めていると見えてくるものがある。

それには、集中と忍耐が必要だった。視界の一点に集中しすぎてはいけない。中心を外さずに、じっと暗闇を暗闇として受け入れ、見詰め続けることが必要だった。

音が聞こえる。雑音のような、ジジジジっという音だったり、シー…という音だったり。でも、それに気を取られすぎてはいけない。

中心が逸れてしまい、焦点がぼやけてしまう。中心を外さずに集中するとは、無心で焦点を合わせることに似ている。何に焦点を合わせようかとか、何かあるはずだと期待する気持ちは、暗闇に見透かされて、暗闇が私を飲み込むことを意味する。

だからこそ、集中と忍耐が必要だった。焦点の精度を少しずつ少しずつ高めながら、暗闇全体を鳥瞰する。時間が掛かるし、雑音や雑念の誘惑は、降ろそうとする足元をスッと払われるように、集中と忍耐を一瞬で奪い去る。

ただし、重要なのは実際的な時間ではなく、集中の質だった。集中の質において、現実の時間はその厚みを失う。15分で焦点が合う時もあれば、1時間でも合わないときがあった。

彼女は心を見るその眼が、暗闇に慣れるのをひたすら待った。身体を動かさず、目を軽く閉じて、ひたすらひたすら…。腹式呼吸でリラックスさせた身体に、掌の力を抜き、親指と中指が触れるか触れないかのバランスを保ちながら。

時折、眉間を寄せる。親指と中指が触れてしまう。呼吸が乱れ、雑念が彼女の頭から離れない。でも、それは仕方がなかった。

こんなことをしないわけには行かなくなったのは、理由があった。



彼女は仕事の昼休みに、南青山のカフェテラスで昼食を摂った。サンドイッチとミルクティ。彼女はその時恋人のことを考えていた。

それは素敵な年上の恋人だった。女性に対するマナーをきちんと弁えていて、何をするにしても彼女優先で進めてくれた。

いつも彼女の話に耳を傾けて、最後まで口を挟まない。そして的確なアドバイスをくれた。そのどれもに思い遣りがあり、口元には笑顔があった。

常に落ち着いた食事場所を選んでくれて、言動や仕草から彼女の体調や思いを汲み取ってくれた。落ち込んでいるときは手を繋いでくれて、よく抱き締めてくれた。頭を撫でて、大丈夫だと態度で示してくれた。

彼女は行動が言葉以上に意味をもち、効果的であることを彼から学んだ。幾度となく。とはいえ、もちろん言葉で安心させてくれるときある。

付き合って半年間、ケンカは一度もない。不愉快な思いや違和感を覚えたことも一度もない。彼女にとって十分すぎる存在だったから、彼女が友達と彼の話をするときには、「私にはもったいないの」と言うのが常だった。

でも、その日のランチで見聞きしたことが彼女の心を激しく揺さぶった。乱暴に。大切な手紙を眼に前で切り刻まれるように、突如として深い悲しみが彼女を襲った。

カフェテラスでランチを摂っていると、目の前を彼が通りかかった。彼女は思わず立ち上がりそうになった。「あっ…」と、自然と笑顔になり、彼に声を掛けようとした。

でも、次の瞬間、彼女は急いでテラスの椅子に座り込むことになる。なぜなら、彼は見知らぬ女性と一緒にいたから。しかも、手を繋いで。

座り込んだ彼女の口は急激に乾き、一滴の潤いも無くしていた。喉は張り付き、すぐにでもひび割れそうだった。気がつくと、声は、生まれたときから出なかったかのように、その機能を完全に失っていた。

身体は鋼の拘束具に覆われ、1ミリも動かせなかった。神経は確かに、体の隅々まで張り巡らされていたが、その鼓動を全く欠いていた。頭ばかりが、ズキンズキンと激しく脈打っていた。

視界だけが正常に機能し、否応なく目の前の光景を非情に伝え続けた。見たいとか見たくないとかの思いに拘わらず、彼女は見なければならなかった。できれば、その場から逃げ去りたかったが、そんなことは許されなかった。

彼らは目の前で信号待ちをしながら、手を繋いだ年下の無邪気そうな女の子と話をしていた。その女の子が何か彼に尋ねたらしい答えの言葉が、スッと聞こえてきた。硬直していた彼女は頭を振り乱して、その言葉を拒絶しようとしたが、もうそんなことも許されなかった。

「…うん、そうだね。異性と付き合うってことは、相手の心を掘り進めるようなものなんだ。そこに何が埋まっているかは僕には分からない。でも、僕が意識的にせよ無意識的にせよ求めていたものがそこにあるから、僕は君といるんだよ。」

彼はそういって繋いでいた手を自分の口許に運んでそっと口づけをした。そっと口づけをされた女の子は、みるみる内に頬を朱く染めて、満面の笑みを浮かべた。彼も嬉しそうに微笑み返した。

太く不気味に光る雷が、彼女に降り注いだ。身動きが取れない彼女は、その衝撃を全身で受け止めなければならなかった。激しく揺さぶられ、地割れすら起こり、見えない血が大量に流れた。

彼女は彼の手の温もりを思った。こんなときに頼るものは、やっぱり彼しかなかった。こんな時ですら、それほど、彼女は彼に依存していたことを思い知った。

彼の手は細長くて、適度な厚さがあった。そして、温かかった。握られているのは手だけなのだけれど、足先まで包み込むような温かさがあったことを思い出した。

思い出すと同時に、その心地よさと比例して、温かさを通り越し、彼女は嫉妬の炎に焼かれた。それは、人々が世界の終末に、仕方なく聖書の山を燃やすのを見つめるように、静かに焼かれた。しかし、激しく執拗だった。



夜、家に帰ってから、混乱した頭で彼女は考えた。あんなに近くにいたのに、彼は私に気付かなかったのだろうかと。でも、自分がそうであるように、彼と女の子は二人だけの世界が視界を彩っていたのだろうと思った。

私も彼も大人で、彼が私だけのものではないこと思った。彼にも意思があり、誰を自分の隣に選ぶかは彼次第であることを思った。私”では”ないのかもしれないし、私”だけ”ではないのかもしれない。

嫉妬の炎の次に彼女に訪れたものは、深い深い失落感だった。無重力で為すすべもなく、どこまでも落ちていく失落であった。どこにも掴まるところがなく、上下左右どこまでも真っ暗な中を、ひたすら落ち続ける失落感。

だから、彼女は眼を閉じて瞑想した。

真っ暗な心に目を向けた。中心を外さずに焦点を合わせ続けた。いくつもの疑問や雑念、雑音を忍耐強く避けていくと、次第に目が慣れてきた。

見えたのは灰色の地面だった。いくつもの穴が空いている。彼が言っていた穴だった。

何人の人が彼女の心を掘り起こした穴。手頃なスコップで掘り進めた跡。誰もが一定のところで掘り進めるのをやめて、覗き込み、何もないことを確認して去っていった記憶の証だった。

私はからっぽで、誰の期待にも応えられなかった。私には何もなくて、何もないのに掘り進めて、ぽっかりとした穴を残して誰もが去っていった。灰色に地面は、痛々しいほど穴ぼこだらけだった。

彼女はその一つ一つを覗き、荒涼とした地を彷徨った。どこかの穴に入って、身体を休めたかった。でも、どの穴も入る気にはなれなかった。

彼が掘った穴を探した。そに穴に入りたかったわけじゃない。やっぱり空っぽだと諦めた、その諦めの痕跡を自分の目で確認したかった。

でも、いくら探しても見当たらなかった。やがて、彼女は諦めた。そして自らスコップを手に取った。

何も考えずに掘り進めた。ザクッザクッとしたリズムに意識を集中した。そして、自分が中に座れるくらいの穴になるとスコップを静かに置いた。

膝を折りたたんで。泥だらけの手や顔のまま、彼女は自分で掘った穴の中に座った。すると、自然と気持ちが安らいでいった。

意識が心を離れてつつあった。体は周りの土と一体となり、意識は宙を舞い始めた。彼女にとって、もう体なんてどうでもよくなっていた。

もう戻れないかもしれない、ふと思った。そうなると、もう彼とも会えない。でも、自分は彼に何を言えばいいのか思い付かなかった。


もう…いいや…


そうして、灰色がかった心の荒野に掘った穴に、彼女は留まり続けた。
早起きは彼女の日課だった。仕事のない日も、六時半には目覚める。前日がどんなに遅かろうと、できるだけそれを守った。

目覚めると、足首を動かす。そこに足があり、そこまで自分の意識が及ぶことを確かめる。そして、できるだけパッと起きて、布団をたたむ。

その後、枕元に置いておいた洋服に着替える。ある時、その様子を見た人は、トトロのサツキみたいだな、と呟いた。彼女はそっと微笑んだ。

冬は部屋のエアコンのスイッチを入れて、洗面所へと向かう。洗濯表示を確認して洗濯機を回す。その間、薄化粧や髪の毛をセットする。

お湯を沸かし、トーストを焼く。朝陽が窓から差し込み、湯気のコントラストを強めた。それがキッチンを湿らせ、彼女の頬を暖めた。

朝食を摂ると、洗濯物を干す。約1時間、ここまではとてもシステマッチックに進む。それを終えると、薄いコーヒーを淹れて、リビングのソファーに座わる。

そして、ようやく物思いにふける。今日は何をしようかとか、やらなければならないことは何だっけとか、そんなことを考える。でも、眠ってしまうことがほとんどだった。

たしかに、彼女のこの日課は簡単なことではなかった。平日の仕事疲れから、それは仕方のないことだった。しかし、そのつかの間の眠りは、質の良い練乳のように、やさしく彼女の意識を包み込む。



その日は、なかなか寝付けなかった。コーヒーが妨げているのかと思って、途中で飲むのを止めたが、原因は違うことにありそうだった。ぼんやりとしたものが、意識の隅にこびり付いていた。

夢うつつになりながらも、彼女は眠ろうとした。浮かんできたことはサーカスだった。高い梁のテントの下で、小さな女の子が空中ブランコをしていた。

頭逆さに手を垂れて、向こう側の女の子の手を取ろうとしている。下にはセーフネットもないし、命綱も付けてはいかなかった。でも二人の女の子の表情は、まるでなんでもないことのように、平然としている。

スキップを踏むように、何度もブランコの棒に両脚を掛けて、二人の女の子は空中を行き来する。何度も何度も。演技のアナウンスもないし、行き来している空気が擦れる音もない。

サーカスを見守る者は、繰り返されるその光景に冷や汗をかいていた。最悪のシナリオを頭に描きながら。観衆の脳裏には、血肉で染まったサーカス小屋の地面を思い描いていた。

半分起きていて、半分夢に中の彼女も手に汗を握って見守っていた。でもその反面、彼女の生活する現実も、そういった不安や恐怖で侵食されていくように感じた。目覚めなくてはいけない、彼女は強く思った。

そこで、大きな笑い声が聞こえた。隣に住む子どもの無邪気な声だった。まだ幼い姉妹のその子どもは楽しそうに外へ遊びに行くようだった。

それで現実に引き戻された彼女は起きあがると、気分を変えようと外へ出た。

近くの公園では朝早くから子どもが遊んでいた。砂遊びをしていたり、三輪車を乗っていたり、土を小枝でほじくっていたりした。彼女はそれを見るともなしに眺めていた。

彼女は今年で28歳になる。今までどうして結婚しなかったのか、とかを考えてみた。出来なかったわけではないし、したくなかったわけでもなかった。

子どもが欲しいかと思ってみても、それは彼女にはよく分からなかった。結婚すらしていない彼女には飛躍しすぎているように思えた。親に訊かれても、無関心じゃないけど、と応えるのがやっとだった。

公園から目を移すと、公園に繋がった住宅街の道はまだ閑散としていた。まだ朝の冷たくて、新鮮な空気が漂っていた。彼女はこの感じがとても好きだった。

でも、頭の中にはまだ残っていた。空中ブランコがずっと続いていた。いつまでも。
子どもの頃、こんな質問をしたことがある。

「なんで暗い森の中で、屋根もなんにもないところで、おじいさんが子どもに本を読んでいるの?」

僕はその時、何かのミュージッククリップを観ていた。歌のサビの部分になると、必ずその場面になった。現実ではあり得ない光景を変に思った。

「それはね、あの少年には、目には見えないものが見えているからだよ」

「ほら、君だって何かに夢中になると、たとえば面白い本を読むと、頭の中に目に見えない世界が見えるでしょ。その少年の様子を表しているのさ」

その時、僕はそういうものかと思った。目に見えない、他の人には見えないものが見える。そういうことがあることに、ちょっとだけ心躍らせた。

子ども時代を過ぎ去った今。そいうことがとても大切だと思うようになった。様々な記憶のピース(断片)が、ふわっと繋がり、ぴたっとハマるとき、目の前の光景が全く違う様子を表す。

長く忘れていた気がする。といっても、ここ二・三年の間。枯れた大地を進むような日々を過ごしてきた。

干上がった地に、潤いをもたらしたのは、ワニの子だった。ぷるるっと、気まぐれに身震いして弾いた、僅かな水滴が遠く離れた僕の乾いた地に届いたんだ。

まるでバタフライエフェクト。こんなことってあるんだなって思った。もちろん、僕は空を見上げて、次の二滴三滴を期待しないわけにはいられなかった。

でも、そんなことは起こらない。

僕はその一滴を噛み締めた。何度もその奇跡を反芻した。体のどこを通って、どこにたどり着いたかを確かめた。

わかったのは、ひとつだけ。目に見えないものを見ようとする、その気持ちを忘れていたこと。もっともっと現実は豊かなはずだったんだ。

考えるのではなく、中心を外さずに、感じることが必要だった。とても集中しなくてはいけない。力みすぎず、弛めすぎず、焦点を外さない意識。

時間や場所を超えて、肉体をも飛び出して、どこへでもいける。

年齢や職業、住んでいる場所、時の経過なんかの条件、誰かに愛されたとか愛されないとか、孤独とかそうでないとか、淋しいとか賑やかとか、そういうのは大切なことじゃない。

もっと自由に、もっと自由に。

どこへでも行ける、何にでもなれるはずだ。
駒沢公園でランニングしていた夜。世田谷を歩き倒していた夜。グリーンライトに照らされながら眠りについていた夜。

しがみついていたものが在った。



知らずに大きく舵はとられていたのだろか。

今は見失いそうだ。



目が眩んだのだろうか。

それとも新世界が見えているんだろうか。



僕は1981年に生まれ、2002年にも生まれた。



三度目の誕生は目前なのだろうか。
昼間、コインランドリーにいた。そこにはベンチがあり、自動販売機もあって、ベンチには屋根が付いている。コーヒーを飲みながら、タバコをふかした。

目の前には国道があって、割と車が走っていた。みんな急いでいるみたいに見えた。もう時間がないんだ、そうただ一事のことのみ思い詰めて。

タバコの灰が足元に落ちた。僕は残った灰を灰皿に捨てる。その時、コインランドリーでは、母と娘らしき人達が洗濯物が乾燥するのを待っていた。

なにを話しているのだろうと思ったが、コインランドリー内の話し声は聞こえてこなかった。

国道沿いの歩道を自転車が何度か通り過ぎていった。

最初は、女子高生が寿限無を唱えながら走り去った。

「じゅげむじゅげむ、ごこうのすりきれ、かいじゃりすいぎょの…」

次は、黄色いヘルメットを被った男子小学生が七草を唱えながら走り去った。

「ごきょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、せり、なずな。ごきょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ…」

最後は、丸太のような太くて真っ黒に日焼けした大男が、折りたたみ自転車に乗って行った。彼は気難しそうな顔をしていた。全く今日もアチィぜ、このチャリじゃ現場に遅れちまう。

僕は再び灰を足元に落としていた。やれやれ、僕以外の人はなんだか忙しそうだ。そう思って、また残った灰を灰皿に捨てた。



そして、親子が仲良く洗濯物を畳んでいるコインランドリーを僕はあとにした。