あなで身をかがめる | 不思議、大好き!

不思議、大好き!

文章はすべてフィクション。ほぼ1話完結。

夜中に心を覗く。真っ暗だった。でも、じっと見詰めていると見えてくるものがある。

それには、集中と忍耐が必要だった。視界の一点に集中しすぎてはいけない。中心を外さずに、じっと暗闇を暗闇として受け入れ、見詰め続けることが必要だった。

音が聞こえる。雑音のような、ジジジジっという音だったり、シー…という音だったり。でも、それに気を取られすぎてはいけない。

中心が逸れてしまい、焦点がぼやけてしまう。中心を外さずに集中するとは、無心で焦点を合わせることに似ている。何に焦点を合わせようかとか、何かあるはずだと期待する気持ちは、暗闇に見透かされて、暗闇が私を飲み込むことを意味する。

だからこそ、集中と忍耐が必要だった。焦点の精度を少しずつ少しずつ高めながら、暗闇全体を鳥瞰する。時間が掛かるし、雑音や雑念の誘惑は、降ろそうとする足元をスッと払われるように、集中と忍耐を一瞬で奪い去る。

ただし、重要なのは実際的な時間ではなく、集中の質だった。集中の質において、現実の時間はその厚みを失う。15分で焦点が合う時もあれば、1時間でも合わないときがあった。

彼女は心を見るその眼が、暗闇に慣れるのをひたすら待った。身体を動かさず、目を軽く閉じて、ひたすらひたすら…。腹式呼吸でリラックスさせた身体に、掌の力を抜き、親指と中指が触れるか触れないかのバランスを保ちながら。

時折、眉間を寄せる。親指と中指が触れてしまう。呼吸が乱れ、雑念が彼女の頭から離れない。でも、それは仕方がなかった。

こんなことをしないわけには行かなくなったのは、理由があった。



彼女は仕事の昼休みに、南青山のカフェテラスで昼食を摂った。サンドイッチとミルクティ。彼女はその時恋人のことを考えていた。

それは素敵な年上の恋人だった。女性に対するマナーをきちんと弁えていて、何をするにしても彼女優先で進めてくれた。

いつも彼女の話に耳を傾けて、最後まで口を挟まない。そして的確なアドバイスをくれた。そのどれもに思い遣りがあり、口元には笑顔があった。

常に落ち着いた食事場所を選んでくれて、言動や仕草から彼女の体調や思いを汲み取ってくれた。落ち込んでいるときは手を繋いでくれて、よく抱き締めてくれた。頭を撫でて、大丈夫だと態度で示してくれた。

彼女は行動が言葉以上に意味をもち、効果的であることを彼から学んだ。幾度となく。とはいえ、もちろん言葉で安心させてくれるときある。

付き合って半年間、ケンカは一度もない。不愉快な思いや違和感を覚えたことも一度もない。彼女にとって十分すぎる存在だったから、彼女が友達と彼の話をするときには、「私にはもったいないの」と言うのが常だった。

でも、その日のランチで見聞きしたことが彼女の心を激しく揺さぶった。乱暴に。大切な手紙を眼に前で切り刻まれるように、突如として深い悲しみが彼女を襲った。

カフェテラスでランチを摂っていると、目の前を彼が通りかかった。彼女は思わず立ち上がりそうになった。「あっ…」と、自然と笑顔になり、彼に声を掛けようとした。

でも、次の瞬間、彼女は急いでテラスの椅子に座り込むことになる。なぜなら、彼は見知らぬ女性と一緒にいたから。しかも、手を繋いで。

座り込んだ彼女の口は急激に乾き、一滴の潤いも無くしていた。喉は張り付き、すぐにでもひび割れそうだった。気がつくと、声は、生まれたときから出なかったかのように、その機能を完全に失っていた。

身体は鋼の拘束具に覆われ、1ミリも動かせなかった。神経は確かに、体の隅々まで張り巡らされていたが、その鼓動を全く欠いていた。頭ばかりが、ズキンズキンと激しく脈打っていた。

視界だけが正常に機能し、否応なく目の前の光景を非情に伝え続けた。見たいとか見たくないとかの思いに拘わらず、彼女は見なければならなかった。できれば、その場から逃げ去りたかったが、そんなことは許されなかった。

彼らは目の前で信号待ちをしながら、手を繋いだ年下の無邪気そうな女の子と話をしていた。その女の子が何か彼に尋ねたらしい答えの言葉が、スッと聞こえてきた。硬直していた彼女は頭を振り乱して、その言葉を拒絶しようとしたが、もうそんなことも許されなかった。

「…うん、そうだね。異性と付き合うってことは、相手の心を掘り進めるようなものなんだ。そこに何が埋まっているかは僕には分からない。でも、僕が意識的にせよ無意識的にせよ求めていたものがそこにあるから、僕は君といるんだよ。」

彼はそういって繋いでいた手を自分の口許に運んでそっと口づけをした。そっと口づけをされた女の子は、みるみる内に頬を朱く染めて、満面の笑みを浮かべた。彼も嬉しそうに微笑み返した。

太く不気味に光る雷が、彼女に降り注いだ。身動きが取れない彼女は、その衝撃を全身で受け止めなければならなかった。激しく揺さぶられ、地割れすら起こり、見えない血が大量に流れた。

彼女は彼の手の温もりを思った。こんなときに頼るものは、やっぱり彼しかなかった。こんな時ですら、それほど、彼女は彼に依存していたことを思い知った。

彼の手は細長くて、適度な厚さがあった。そして、温かかった。握られているのは手だけなのだけれど、足先まで包み込むような温かさがあったことを思い出した。

思い出すと同時に、その心地よさと比例して、温かさを通り越し、彼女は嫉妬の炎に焼かれた。それは、人々が世界の終末に、仕方なく聖書の山を燃やすのを見つめるように、静かに焼かれた。しかし、激しく執拗だった。



夜、家に帰ってから、混乱した頭で彼女は考えた。あんなに近くにいたのに、彼は私に気付かなかったのだろうかと。でも、自分がそうであるように、彼と女の子は二人だけの世界が視界を彩っていたのだろうと思った。

私も彼も大人で、彼が私だけのものではないこと思った。彼にも意思があり、誰を自分の隣に選ぶかは彼次第であることを思った。私”では”ないのかもしれないし、私”だけ”ではないのかもしれない。

嫉妬の炎の次に彼女に訪れたものは、深い深い失落感だった。無重力で為すすべもなく、どこまでも落ちていく失落であった。どこにも掴まるところがなく、上下左右どこまでも真っ暗な中を、ひたすら落ち続ける失落感。

だから、彼女は眼を閉じて瞑想した。

真っ暗な心に目を向けた。中心を外さずに焦点を合わせ続けた。いくつもの疑問や雑念、雑音を忍耐強く避けていくと、次第に目が慣れてきた。

見えたのは灰色の地面だった。いくつもの穴が空いている。彼が言っていた穴だった。

何人の人が彼女の心を掘り起こした穴。手頃なスコップで掘り進めた跡。誰もが一定のところで掘り進めるのをやめて、覗き込み、何もないことを確認して去っていった記憶の証だった。

私はからっぽで、誰の期待にも応えられなかった。私には何もなくて、何もないのに掘り進めて、ぽっかりとした穴を残して誰もが去っていった。灰色に地面は、痛々しいほど穴ぼこだらけだった。

彼女はその一つ一つを覗き、荒涼とした地を彷徨った。どこかの穴に入って、身体を休めたかった。でも、どの穴も入る気にはなれなかった。

彼が掘った穴を探した。そに穴に入りたかったわけじゃない。やっぱり空っぽだと諦めた、その諦めの痕跡を自分の目で確認したかった。

でも、いくら探しても見当たらなかった。やがて、彼女は諦めた。そして自らスコップを手に取った。

何も考えずに掘り進めた。ザクッザクッとしたリズムに意識を集中した。そして、自分が中に座れるくらいの穴になるとスコップを静かに置いた。

膝を折りたたんで。泥だらけの手や顔のまま、彼女は自分で掘った穴の中に座った。すると、自然と気持ちが安らいでいった。

意識が心を離れてつつあった。体は周りの土と一体となり、意識は宙を舞い始めた。彼女にとって、もう体なんてどうでもよくなっていた。

もう戻れないかもしれない、ふと思った。そうなると、もう彼とも会えない。でも、自分は彼に何を言えばいいのか思い付かなかった。


もう…いいや…


そうして、灰色がかった心の荒野に掘った穴に、彼女は留まり続けた。