結婚して、新婚さんが最初に住んだのは、名古屋市北区の城東町という処だった。この城東町はかつての遊郭街で、売春宿を中心に、呑み屋、一膳めし屋などが細い路地に立ち並ぶ、華やかな街だったらしい。現在は静かな住宅街となっているが、かつての遊郭の面影を残す古い建物がちらほら残っている。
日中でも車も走らず道行く人は殆ど居らず、ただ静まり返った住宅街で、注意して見なければ、遊郭街の名残を僅かに留めていることに気付くこともあるまい。そんな街中に一軒の小さな中華料理屋があった。店の名は『夜来香』。「イエライシャン」と読む。
夜来香は本来花の名前だが、李香蘭の大ヒット曲の曲名であることは言うまでもない。そんな名前の中華料理屋があったのだ。お世辞にもオシャレな店とは言えず、かなり投げやりな店構えではあったものの、我々夫婦はこの店が気に入って、よく通った。物静かな中年の夫婦がやっており、ダンナは厨房から出て来ることはなく見た事はなかったが、僅かに聞こえる会話からおそらく中国人だったろうと思う。夕方、店に行っても、我々の他にお客が居たためしが無かった。料理を運んでくる奥さんはいつも疲れた様な顔をしていて、内心心配してしまいそうになる。だが、料理の味はどれもこれも良かったのである。
どれも美味いメニューの中で、我々夫婦の特にお気に入りだったのが、中華焼きそばだった。所謂あんかけ焼きそばだが、かた焼きそばではなく、麺は揚げずに焼いてあるタイプ。何んの変哲もない町中華のメニューではあるが、コレが絶妙な味付けで好みにバッチリ合ったのだ。この中華焼きそばが目当てで通っていたと言っても過言ではない。
やがて、我々は城東町から引っ越すことになった。引っ越し前の最後に店に行ったとき、奥さんに引っ越すことを伝えた。すると奥さんは淋しそうな顔をして「じゃあ、もう来てくれなくなるんですね」と言った。「いやいや、引っ越すと言ってもすぐ隣の町に行くだけですから、今後も度々来ますよ~」と答えると、「そう仰っても、近くじゃないともう来てくれなくなるもんですよ」と、力なく笑った。
実際、奥さんの予言通り、我々は引っ越してから、結局一度も行くことが無く、気付いた時にはいつの間にか夜来香は跡形も無くなっていた。
先日、なぜかわからないが、フとこの夜来香の中華焼きそばを思い出した。もう二度とふたたび味わうことが出来ない中華焼きそば。でも、自分の記憶力は抜群で、味覚中枢はその味を確実に覚えている。よし!再現してみるか!よし!作っちゃおう!
そして出来上がったのがコレ。
もちろん、完璧とは言えないが、かなりの再現力だと自負した。よーこは「オイシー! 嗚呼!あの味、あの時、あの頃を思い出すー!」と非常に喜んでくれた。ただ、写真に撮っても別に特別な絵ではない。もっと言えば、別に特別な味でもないのだ。
味覚というものは人それぞれで、好みも千差万別。人が旨いと言ったからといって自分が旨いと感じるかどうかは別問題。だからこの夜来香の中華焼きそばも、人によってはたいして旨くないというかも知れない。そして自分が再現した中華焼きそばを、そっくりだ合格!という人も居れば、ぜんぜん違うぞ失格!という人も居るだろう。幸か不幸か、夜来香は今はもう無く、審査基準になる原本は永遠に失われている。ただ、その原本を知っているよーこが合格を出してくれたのは、幸いである。
後日、よーこはまた岐阜の実家に、老父の面倒をみるため帰省した。一人になった夜、夜来香の中華焼きそばで使った素材が少し残っているのに気付いた。う~ん、コレで何作ろうかなあ~。あ!そうだ! と思いついたのはアヒージョ。
アヒージョはバカみたいにカンタンに出来るが、おいしい。余った素材をニンニクのオリーブ・オイルでグツグツ煮るだけ。スペインの家庭料理だが、何だかオシャレ。ちょうど家にお気に入りのホテル・パンがあったので、折角ならそれなりにしようとワインを買いに行く。更にマカロニ・サラダを作って、有り合せの生野菜をテキトーにお皿に盛って、準備完了。うわ~、コリャ贅沢な晩餐じゃわい。
夜来香の中華焼きそばから、なぜかスペインのオイル煮に飛んでしまった。しかし、アヒージョを味わいながら聞くのは、やっぱり李香蘭である。なんせ、このアヒージョは夜来香の中華焼きそばから派生したものであるから、気分はスパニッシュではなく、チャイニーズなのだ。李香蘭のなんとも優しい歌声に、気分よく欠伸の時間がやって来る。
夜来香を聞きながらのアヒージョと赤ワイン。この夜の李香蘭の歌声は格別であった。




