内村鑑三は「蓮長が仏教の基本的知識の習得に没頭している最中、いくつか解決を迫られる問題が生じました。そのなかで、もっとも明らかな課題は、仏教に無数の教派の存在する問題でした。『なぜか』、蓮長は考えました。『一人の人の生涯と思想からはじまった仏教が、今や非常に多くの宗派や分派に分かれている。仏教とは一つではないのか』。『まわりをみると、一宗は他宗すべての悪口を言い、おのおの自分こそ仏教の根本をとらえていると主張している。これは何を意味するのか。海水は同じ味をもっている。仏陀の教えに二つの道がありうるはずがない。この宗派の分裂はどのように説明されるのか。いずれの宗派が、私の従うべき仏陀の道であるのか」(p150)。
「これが、蓮長の抱いた最初にして最大の疑問でありました。きわめて当然の疑問であります。私どもも、同じような疑問を、仏教にも他の宗教に対しても抱きました。同じ悩みをかかえた、わが主人公に深く同情できるのであります。その疑問は、蓮長の寺の住職も、他のだれも解いてはくれませんでした」(p151)。
「しかしながら、ある夕、蓮長は、仏陀が入寂する直前に語ったという涅槃経に目を注いでいました。そのとき、次の文がこの若き僧をとらえました。そして迷い苦しむ心に言い知れぬ解放感を与えたのです。それは『依法不依人』、真理の教えを信じ人に頼るな、との言葉であります。すなわち、人の意見はどんなにもっともらしく、耳触りがよくても、頼るべきではない、「仏尊」によって残された経文こそ頼るべきである。あらゆる疑問は、それによってのみ解決しなくてはならない、とわかったのです」(p151)と。
内村鑑三は、日蓮が仏教は一つのはずなのに、どうして多くの宗派に分かれているのか、と疑問に感じたことを記述している。やはり、どうして? なぜ? と若い日蓮が一人考え、探求の旅に出たことは素晴らしい。そして、その結論が「依法不依人」と鑑三は鋭く指摘する。この語句は「法によって人によってはいけない」という意味である。法は釈尊が何を重視していたのか根本を的確につかむことであり、人とは確信はあっても根拠のあいまいな、中途半端な人間の考えである。この判別はとても難しく、明確にしたのは中国の天台大師が最初である。その仏教正統の流れがわが国にも伝わってきている。それを見抜くことは難事中の難事である。