なぜ生きる | とある学生の雑記

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本音の話がしたいのです。

ある学者が調べたそうです。

人の人生をトータルすると、「楽しいこと」と「辛いこと」とでは、どちらの方が多いか。

多くの人の人生を調べてみると、やはり「辛いこと」の方が圧倒的に多かったそうです。

つまり、人は苦しむために生まれてきたということになるということなのです。少なくとも楽しむために生まれてきたのではなさそうです。そうなると、ますます絶望の淵に追いやられる感じですよね。

でもそうでない人たちがかつて存在しました。その人たちの存在が私たちに生きる勇気を与えてくれるのです。

第二次世界大戦中にナチスによって、アウシュビッツ等の強制収容所に送られた多くのユダヤ人たちがいました。その中の一人に、収容所での体験を書いた「強制収容所における一心理学者の体験」(邦訳:「夜と霧」)の著者で、精神科医のV・E・フランクルもいました。


 

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戦後、彼の講演会の内容をまとめた著書も何冊か出ています。「それでも人生にイエスと言う」(春秋社、1993年初版)という著書などが日本でも翻訳されています。


 
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人間的なもの全てが奪われた絶望しかない悲惨な生活の中で、人間の精神がどう変わっていったかを分析しています。

強制収容所に入れられた囚人の心理的反応をフランクルは、3段階に分けています。

その第1の段階は、収容所に入れられるときの入所ショックです。何しろ95%が輸送後すぐにガス室に送られたのです。たまたまガス室に送られなかった5%の人々も毛を全て剃られ、肩書きも地位も何もない一個の「裸の」人間として始まります。そして、いつガス室に送られるかというとんでもない恐怖の状況におかれます。絶望して自殺を考え、高圧鉄線に飛び込むことを考える人もいたようです。

しかし、フランクルは、“ガス室を恐れて、自殺する必要があるか”ということに気がついてからは、一度自殺を望んだなら、「ガス室」を恐れることはなくなったと述べています。

強制収容所に入って数日間は、恐怖や怒り、様々な身体症状が起こるようですが、次第に自らの運命に対して無関心・無感動になっていきます。

そしてひたすら一日、一日をなんとか生き延びることだけに全力を注ぎ、それ以外は心の殻をかぶってしまいます。いわば無意識の心的防衛でしょう。(親から虐待を受け続けた子どもが次第に麻痺し無感動になっていく過程に似ていると感じました。)

そして次に退行という現象に近づいていきます。人間的な水準が下がり、ほとんど動物の水準まで下がっていくのです。動物の水準といっても、目立ってはいけません。目立てば殴られ、蹴られ殺されることになるからです。囚人という群れの中に自分を隠さねばならず、本能的に原始的な存在になるのです。

しかし、果たして強制収容所は全ての人間を運命的に退行させ、動物のように内面的にも後退させてしまうのでしょうか?

実は、そうでない人たちがいたことをフランクルは発見したのでした。

フランクルが発見したのは、強制収容所で人間的に退行や後退するどころか、内面的に前進し、大きな人間に成長した人たちでした。

強制収容所の生活の中で、典型的な囚人になってしまった人たちと、そうでなく前向きに生きることが出来た人たちとの違いをフランクルは、「心の支え」の持ち方に見出しています。

典型的な囚人は「将来」にその支えを持っていた、つまり、必ずナチスが降伏して解放され、将来自由の身になれる、といった支えです。一方、前向きに生きれた人たちは、その支えを「永遠なもの」に置いていたそうです。

ところで、「前向きに生きれた人」というのは、どのような人だったのでしょうか。

「同じ状況に直面して、ある人間はそれこそ豚のようになったのに対して、他の人間はそこの生活において反対に聖者のようになった」といいます。「色んな人に優しい言葉をかけ、自分の一片のパンを他者に与えていた人々」がいたという驚くべき事実を、フランクルは見たのでした。

決して強靭な肉体の人ではなくむしろ繊細な性質の人の方が収容所の生活によりよく耐えられたともいいます。

では、フランクルが驚嘆した聖者のような人たちは、一体何にその支えを置いていたのでしょうか。

フランクルによればそれは「宗教的なもの」だと言います。

いろいろ解釈できると思いますが、ここでいう宗教的なものとは、本来の宗教というよりも、生きる意味を自分なりにしっかりと持っている人のようです。かつてニーチェも「生きることに理由を持っている人は、どんな状態にも耐えることができる」と述べています。

では、生きる理由とは何なのか?

フランクル自身は、『生きる延びることが義務であり、生き延びることに意味がある』

と言っています。

そもそも生きる意味は何なのか、ではなくて、生き抜くこと自体が意味である、と。

なるほど、と思いました。

いろんな意見があると思います。ただ、強制収容所では、そのような考えができる人が他人にも優しく、強くたくましく生きることができたという事実があるのです。

それをどう支えにするかはそれぞれの課題だと思います。しかし、そういった事実があったということが私には大きな支えとなっています。