ココハドコ? アタシハダレ? -76ページ目

ココハドコ? アタシハダレ?

自分が誰なのか、忘れないための備忘録または日記、のようなもの。

 

昨日、高齢者向け第1回ワクチン接種、行ってきた。雨も降ってないし歩いても行ける距離、チャリなら10分くらいか。でも風が強いのに負けて電車。1駅。結構待つかと思ったが予約時間が小刻みに切られていたので密にもならず予約時間前に待っていたのは10人くらいだったか。午後3時、予定時刻になると順番に接種会場に入り、まず検温、異状なければ予診室で医師と面談、それから接種。注射してから予診票に接種券(クーポン)を貼って提出。副作用がないか15分その場で待機して、何事もなく会場を後にした。

会場に着いてから出てくるまでちょうど30分。帰りは歩き、30分。少し汗をかいて軽く運動した気分。

 

ちなみにワクチンはファイザー社製だったが、20日にモデルナとアストラゼネカのワクチンが承認されるらしい。私の2回目は中3週あけて6月。医師に次回もファイザーで打てるのかと尋ねたら、何になるかわからないという返事。

 

ちゃんぽんはイヤだぜ、特にアストラゼネカは!

 

と叫んでもダメだろうな。副作用で血栓出来たらどーしてくれるんだと言ったところで、タダなんだから我慢しろ、イヤなら打つなと言われてしまいそうだ。

(アストラゼネカは生産が遅れて出荷も遅れそうという話があるにはあるけど・・・)

 

 

*****

 

政治家やお役人は7月中に高齢者のワクチン接種を終わらせると言い続けているが、自治体によっては未だワクチンが届いてないどころか、いつどれだけの量が来るのかも聞いてないという所があって、このあたりの無責任体制は相変わらずといったところ。アメリカでは新規感染者数がだいぶ減ってきている。それでもワクチンを打ち始めて4~6ヶ月くらいかかったんじゃなかろうか。日本も同じくらいかかるとすれば年内いっぱいはかかる。それもワクチンが順調に供給されての話で、しかも今以上に悪質な変異種が出てこないことが前提だ。

 

そういう状況でもオリンピックはやると言ってる。去年中止にして去年と比較にならないくらい状況が悪化してる今年はやるって、要するにお金?それとも菅政権維持の決死の賭け?何を考えてるのか知らないが中止にするのが良識というものだろう。

考えてみると1964年の東京大会はともかく戦時中の1940年も最初東京大会が予定されたのを返上したのだった。IOCにとって日本は鬼門ですね。向こう100年日本には近づかないほうがいいかも(笑

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

 

 

西日本は梅雨入りしたらしい。その分早く明けてくれればいいけど、蒸し暑いのが続くのはやり切れない。関東も週明けはずっと傘マークでこちらも梅雨入り宣言出るんだろう。ついこのあいだ、沖縄が梅雨入りとか言っていたと思ったら梅雨前線がどんどん北上してきた。だからといって沖縄が梅雨明けしたわけではなさそうだし、前線は南へ北へと上下に行ったり来たりするんだろうか。

 

とりあえず今日だけでも降らずにいてほしいんだけど、どうなるか・・・・

 

 

 

 

 

というのも実は、今日夕方から第1回目のワクチン接種。会場がちょっと遠い。

チャリで行きたいのだが、雨だと億劫だ。

 

*****

 

私の住む町ではネットでの予約は24時間OKなので夜遅くを狙ったら、予約開始日の夜に思ったよりあっさりと予約が取れた。ネットに縁のない高齢者は毎日電話にかじりついていてもなかなかつながらないらしい。気の毒だと思う。何とかならないか。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 写真ブログへ

 

「男は35歳過ぎたら自分の後姿くらい見えてなくちゃダメだぜ」

 

ある時、と言ってもずいぶん昔だが5歳ほど年上の男性から言われた言葉である。当時私はまだ20代、彼も30代前半で35歳にはなっていなかった。ずいぶんとカッコいい言葉でそれは私の心につきささり、以来私は私なりに自分の後姿を意識しながら生きてきたと思っている。もちろん臆病者で小心者、どこにも男らしさなど持ち合わせぬ私は言葉のようにはカッコよく生きてきたわけではない。人間としていかに生きるべきか、そんな理想を追いながら、理想と現実の自分との間にある距離の大きさはよくわかっている。その距離だけは見失わないようにしつつ、かつ、誰でもするように自分に合った生き方、そういうものを少しづつではあるが身につけてきた、それだけの事である。

そして今、私に見える私の後姿は自分でも決してほめられたものではないが、それでも輪郭ぐらいは見えるようになった、そんな気がしている。いや、自分で自分の後姿が見えると言ったところでしょうがない。周りから見れば相も変らぬどっちつかずの中途半端な人間でしかないならただの自己満足、何の意味もないことだ。35歳などという年齢は、もうはるか彼方に飛び去って行ってしまったが、それだけは間違いようの無いことで、それを今更嘆いても始まらない。

 

 

 

   「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い

   出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人(ひと)事にせよ、解った例(ため)しがあった

   のか、鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。

   何故、ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ・・・・」

 

小林秀雄の「無常という事」のなかの一文である。「死んでしまった人間」とは歴史上の人物のことを言っているのだが、はっきりしてくる「人間の形」とはその人生を歩いた後姿の事ではないか。去りゆく死者の後姿を見送る地上の生者。

 

  「歴史には死人だけしか現れてこない。従って退っ引(のっぴ)きならぬ人間の相しか現れぬし、

   動じない美しい形しか現れぬ。」

 

「退っ引きならぬ人間の相」とはあたりまえのことながら退っ引きならぬ生き方をした人間からしか出てはこない。歴史上の人物だけではない、今生きている誰であれ、退くことも引くこともない「生き方」が問われている。それだけが人間の形=後姿を造り上げるという事なのだと思う。

 

*****

 

「おまえほど人生、整理できてるやついないよね」

 

これはさほど古い話ではない。勤めていた会社を辞めたあとも親しくしてもらった、会社で世話になった先輩から言われた言葉である。彼の言葉を聞いた時、「あ、そうかもしれない」とは思ったが、実際彼の言った「整理」が私の受け止めた「整理」と同じ意味かどうか、具体的に何を指して言ったのかここで正しく説明する自信はない。また、私が考える「整理」の内容についても煩雑になるのでここでは書かない。

 

ただ、よく不始末をしでかした人間に向かって言う「自分のケツは自分で拭けよ」という言葉、私はだいぶ前から人生を終える時、死ぬ時には「自分のケツは自分で拭いて」死のうと思っていて、そんなことは不可能とは知ってるつもりではいるのだが、私の生きざまについても死にざまについても、あとに残された私を知る人々が誰も疑問を抱かない、そういう意味では「整理」された姿で日々を送り、静かに死んでいきたいとは思っている。

 

私の死後、 「あの人、どんな人だったの?」という質問に対し、たとえば、

 

     「人生をとことん整理したやつ」 とか、

     「結局、一生、な~んにもしなかったやつ」でもいい。

 

そんな短いひとことで誰もが「うん、まさしくそういうやつだった」と納得し疑問を抱かない、そんな姿で死にたい。

 

光陰矢の如し、人生という時間はあっという間だといわれる。「あっという間」という言葉は時間の短さの比喩ではない。死ぬ間際、人は自分の全人生を思い出すといわれる。「あっ」というわずか1秒に足るか足らぬかの瞬間に誕生から死までの時間をもう一度生きるのだ。こういう言い方が許されるなら「人生とはその程度のもの」と言ってもいいかもしれない。そして、その瞬間を充実させ意義あるものにできる者は幸せだ。

 

そしてその時が来たら、静かにわらってサヨナラといえるように祈ろう。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ