7月末に誕生日を迎え76歳になった。運転免許の更新が必要になったのだが、久しく運転してないこともあって、運転に自信を失いかけている。免許証を返上しようかどうしようかと、しばらく迷っていたが、結局更新することにして、認知機能検査やら教習所での高齢者講習(実車)を経て、更新してきた。
年齢だけをもって「高齢者」扱いされるのはあまり気分の良いものではない。健康保険など「後期高齢者」である。70歳で「高齢者」扱いされ、それからわずか5年で「後期」と言われた。人生100年時代とか言いながら、さて「後期」は何年続くのだろう。
で、実を言うと私には自分が「年寄り」であるという自覚が全くない。皆無。まあ、70代半ばで「年寄り」という自覚を持つ人もあまりいないような気もするのだが、「より良く年を取る」とはどういうことなのかと考えてみようかと、そんな心境にはなっている。
いや、「何、カッコつけてやがる」と言われれば、確かにそれはその通りなのだが、そんなことを思いつくにはそれなりのきっかけがあって、朝起きて、心臓がなんだか力がない気がするとか、歩いている時の息切れがちょっと、とかそんなことを感じることが増えている。耳も遠くなってマスク越しに話をされると、高音部が遮断されて、低音部だけははっきり聞こえるが言葉として理解できない、そんなことがよくある。身体的な衰えは防ぎようがない。
身体的な衰えを感じながら、一方で同世代の男たちと比べるとはるかに元気な自分がいる。そんなことを思うと、年の取り方なんてものを考えるなら、今しかないという気にもなるもんだ、漠然とだがそう思う。
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身体的な衰えはともかく、どうやら年を取ったと感じる大きな要因は、感動しなくなったという事である。毎日が「つまらない」のである。警備の仕事も長年やっていると、さすがに新鮮さは失せている。仲間とするのは昔話ばかり。家で映画を見ても本を読んでも音楽を聴いても感動しない、食事ひとつとっても「おいしい」と思うことが無くなった。何か新しいことに出会いたいと思うが、何があれば自分は感動するのだろうと考えても答えは出てこない。数年前に大学の通信教育で日本語教師養成講座を履修して、今はボランティアで外国人に教えているが、何とかこれで自分を支えている、そんな気がしている。何か新しいことをしないと「鬱」になりそうだ、そんな恐怖感があるのだ。
人は人生で一度や二度は予想もしていなかった過酷な経験をするものなのだと思う。それは戦争や災害に限らず、仕事でもプライベートでもそれぞれのフェーズで起こるし、そうした体験を克服するとなぜか「もはや自分には怖いものが無い」という事を実感するようになる。
しかし、「怖いものがない」とは自分の見知った世界のことでしかなく、その外にはさらに広大な世界が広がっていることにはなかなか気づかないものだ。その、更に広い世界へ出ていき、新しい世界と出会う、何事かに感動するとは、そういう行為の結果としてしかないのではないか。幼い子供が日常の様々なことに感動するのは、生まれて数年のわずかな時間の中では、出会うことの多くが見知らぬ世界のことであり、日々出会う様々な事象が感動の対象になりうる。しかし、時がたつにつれ自分を取り囲む世界が限定され、そこにあるものは、かって感動をもたらした対象も日常的な平凡事になってゆく、つまり時間がたてばたつほど、年をとればとるほど世界は限定され、感動する対象がなくなるのは避けられないことなのだろう。
どうすればこの見慣れた世界を少しでも広げ、新しい世界とめぐり逢い、新たな感動を体験できるのだろう。厄介なことだが、「感動する」とあらかじめ予想できることに感動などありえないのであって、結局、手あたり次第あれもこれもと手を出してゆくしかないのだろう。
じたばたするしかない
それが、76歳になった所感といったところで、その程度の元気はかろうじて残っているようだ。
(カワラヒワ)

