ゴッホ展を見てきた。ゴッホの展覧会はこれまで何回も開かれてきたのだろう。2年ほど前にも上野の森美術館で開かれており、そちらも私は見ている。ゴッホの作品が大々的に日本に紹介された最初はおそらく1953年の複製画による展覧会で、実作品での展覧会となると1958年に東京国立博物館で開かれたゴッホ展で、実は親に連れられて私はこれも見ている。この展覧会は大盛況で国立博物館の周囲に長い行列ができ、鶯谷駅の方まで長くのびていたのを覚えている。
この展覧会にはゴッホが大色彩画家として登場するアルルの時代以降の名作が大挙して展示されていた。アルルのはね橋や満開の桃の木を描いたもの、花瓶に生けられたひまわりや、夜のカフェ、糸杉、これらの主だった代表作が子供だった私に強い印象を残したようだ。絵といえば子供向けの絵本とか小学校の授業で描く自分や級友の絵しか知らず、本格的な絵画に初めて触れたのがこの展覧会で、大混雑の中で見たこれらの作品の記憶が今に残るくらいだから、その印象は相当に強かった、と言っていいのだろうと思う。
しかし、時代とともに展覧会の規模は小さくなってきている。作品の数はそろっても、なかなか名作がずらりと並ぶという事はなくなった。これは海外から日本に輸送するにあたって、盗難や破損、紛失と言ったケースに対してかけられる保険の金額が年々上昇し、今では莫大な金額になっているからだと言われる。だから、そうそう名作ばかりを持ってくるという事が出来なくなった。寂しい限りである。
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今回のゴッホ展も2年前のゴッホ展も構成は似ており、オランダ時代に重心を置いているように見えた。ゴッホはひとことで言えば「善意の人」なのだが、この「善意」が実は抜き差しできぬところまで彼を追いやっていったらしい。まだ本格的に絵を描き始める前、彼は美術商に就職したものの解雇され、牧師になろうとして失敗し、伝道師にもなるにはなったが、派遣された鉱山で抗夫たちと同じように顔を汚しきたない格好で説教し、なけなしの金もパンも着るものも、寝台までも人々に与えて自分は乞食同然の風体だったという。教会は伝道師の体面を汚すものとして彼を追放した。弟のテオに勧められて絵を描き始めるのはこの頃なのだが、ハーグに移ってアトリエを構えた彼は、父なし子を妊娠した娼婦を保護し、家族との間に騒動を起こし、彼を支えてきた弟からも送金を止められる。
こうしたオランダ時代のデッサンや暗い色彩で描かれた農民や職人の油彩画、これまで私はあまり注目して見ては来なかったが、デッサンの線や油彩の筆の力強いタッチにはこれら貧しい労働者や農民に寄り添って生きようとする強い感情が込められているように見える。色彩は暗いがペシミスティックな印象は皆無と言って良く、それが魅力になっている。
「防水帽を被った漁師の顔」という作品がある。辛苦に満ちた半生をはね返そうとする強い意志を感じさせる目が印象的である。娼婦だったシ-ン・ホールニクがモデルと言われる「祈り」というデッサンでは悲しみを乗り越えて母親となった女の安らいだ表情が印象的だ。後の「大色彩画家」など想像もできない作品群だが非常に魅力的な作品が並んでいたことは確かである。私はそう感じた。
ゴッホのわずか10年そこそこの画業のうち、色彩が明るさを獲得してゆくのは後半の5年、弟から印象派絵画の話を聞いたり、パリに出て実際にそれらの絵画に触れたり、印象派画家との交流が始まってからのようである。では、それは「流行」を追ったという事なのだろうか、ゴッホの中で何が変わったのだろう?労働者や農民、貧困の中にあって救うすべもないような人々に「寄り添って」生きようとしたゴッホはどこに行ってしまったのだろう?
以下は全く私の個人的な考えだが、おそらく「寄り添う」事のどれをとっても失敗し続けたゴッホの「善意」、出口を失った彼の「善意」が最後に見つけた出口があの色彩だったのではないか。彼は彼の「善意」という魂を、あの美しい色彩の中に込めたのだと、そんな気がしてならない。