「男は35歳過ぎたら自分の後姿くらい見えてなくちゃダメだぜ」
ある時、と言ってもずいぶん昔だが5歳ほど年上の男性から言われた言葉である。当時私はまだ20代、彼も30代前半で35歳にはなっていなかった。ずいぶんとカッコいい言葉でそれは私の心につきささり、以来私は私なりに自分の後姿を意識しながら生きてきたと思っている。もちろん臆病者で小心者、どこにも男らしさなど持ち合わせぬ私は言葉のようにはカッコよく生きてきたわけではない。人間としていかに生きるべきか、そんな理想を追いながら、理想と現実の自分との間にある距離の大きさはよくわかっている。その距離だけは見失わないようにしつつ、かつ、誰でもするように自分に合った生き方、そういうものを少しづつではあるが身につけてきた、それだけの事である。
そして今、私に見える私の後姿は自分でも決してほめられたものではないが、それでも輪郭ぐらいは見えるようになった、そんな気がしている。いや、自分で自分の後姿が見えると言ったところでしょうがない。周りから見れば相も変らぬどっちつかずの中途半端な人間でしかないならただの自己満足、何の意味もないことだ。35歳などという年齢は、もうはるか彼方に飛び去って行ってしまったが、それだけは間違いようの無いことで、それを今更嘆いても始まらない。
「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い
出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人(ひと)事にせよ、解った例(ため)しがあった
のか、鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。
何故、ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ・・・・」
小林秀雄の「無常という事」のなかの一文である。「死んでしまった人間」とは歴史上の人物のことを言っているのだが、はっきりしてくる「人間の形」とはその人生を歩いた後姿の事ではないか。去りゆく死者の後姿を見送る地上の生者。
「歴史には死人だけしか現れてこない。従って退っ引(のっぴ)きならぬ人間の相しか現れぬし、
動じない美しい形しか現れぬ。」
「退っ引きならぬ人間の相」とはあたりまえのことながら退っ引きならぬ生き方をした人間からしか出てはこない。歴史上の人物だけではない、今生きている誰であれ、退くことも引くこともない「生き方」が問われている。それだけが人間の形=後姿を造り上げるという事なのだと思う。
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「おまえほど人生、整理できてるやついないよね」
これはさほど古い話ではない。勤めていた会社を辞めたあとも親しくしてもらった、会社で世話になった先輩から言われた言葉である。彼の言葉を聞いた時、「あ、そうかもしれない」とは思ったが、実際彼の言った「整理」が私の受け止めた「整理」と同じ意味かどうか、具体的に何を指して言ったのかここで正しく説明する自信はない。また、私が考える「整理」の内容についても煩雑になるのでここでは書かない。
ただ、よく不始末をしでかした人間に向かって言う「自分のケツは自分で拭けよ」という言葉、私はだいぶ前から人生を終える時、死ぬ時には「自分のケツは自分で拭いて」死のうと思っていて、そんなことは不可能とは知ってるつもりではいるのだが、私の生きざまについても死にざまについても、あとに残された私を知る人々が誰も疑問を抱かない、そういう意味では「整理」された姿で日々を送り、静かに死んでいきたいとは思っている。
私の死後、 「あの人、どんな人だったの?」という質問に対し、たとえば、
「人生をとことん整理したやつ」 とか、
「結局、一生、な~んにもしなかったやつ」でもいい。
そんな短いひとことで誰もが「うん、まさしくそういうやつだった」と納得し疑問を抱かない、そんな姿で死にたい。
光陰矢の如し、人生という時間はあっという間だといわれる。「あっという間」という言葉は時間の短さの比喩ではない。死ぬ間際、人は自分の全人生を思い出すといわれる。「あっ」というわずか1秒に足るか足らぬかの瞬間に誕生から死までの時間をもう一度生きるのだ。こういう言い方が許されるなら「人生とはその程度のもの」と言ってもいいかもしれない。そして、その瞬間を充実させ意義あるものにできる者は幸せだ。
そしてその時が来たら、静かにわらってサヨナラといえるように祈ろう。